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最近、高校時代や中学時代の友人と再会する機会が多くある。同窓会で意図的に会うにしろ町で偶然見かけるにしろ、友達の顔を見ると一瞬で当時の情景や気持、匂いまでがよみがえってくるのは実に不思議なことだ。
友達という言葉の定義は人によるものだろう、時代に、国によるものだろう。友達という概念が無い場合もあるかもしれない。血縁関係も肉体関係も主従関係もない、ゆるやかな人間の繋がりで結ばれた友達、その関係は環境に左右されやすくひどく流動的で、そして脆い。「友達」であることを維持することに何ら義務はなく、自分の利益のためだけに「友達」を用いてもとがめられはしない。
今は学校や仕事、または地域、その他の活動で同じカテゴリーに分類されたその場で友達と出会うことが多いだろう。(もう1つインターネットという特殊な手段もあるが。)現代に限らず、人間との出会いとは所属やなにかの共通部分があるからこそ起こるのだ。同じしがらみの中で出会う人間には同属意識が芽生えるし、そのしがらみに抵抗するという目的を共にすることで共感し合えるものだ。しかしまたそのしがらみが無くなった時、つまり「友達」との共通部分が減少した時、互いの関係が希薄になるのも、ゆるやかな結合を成す流動的な友達の性質ゆえに当然のことである。
具体的には、学校というしがらみを卒業した今、当然のことだとしてここで関係を絶って良いのか。まるで現代の大量消費社会を象徴するかのように、人間関係を使い捨てて良いのか、と問いたい。その答えはもちろん「人によりけり」であり、そこに答えは無い。
しかし、人生において最も重要な訳ではないかもしれないが、人間関係・友達関係は人生の大部分を占めている。しがらみから解き放たれて自由な関係になった時、昔を懐かしむもよし、公的な議論を交わすもよし、夢を語るもよし、使い捨てにとどまらない「一生モノ」の友達がそばにいることはどんなに幸せだろうか。人の出会いは「一期一会」、出会いを大切にする昔の言葉が優しく響く。