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私は幼い頃「戦争」にドキドキした。ゼロ戦や大和がかっこいいからではなく、防空壕・赤紙・配給・空襲・・・そんな一般民衆の苦しみそのものに心惹かれていた。現代から最も近く、最も異なった世界を(不謹慎極まりない話だが)確かに「好き」だったことを覚えている。そのため、いかにも可哀想な戦争の本を好んで読んだ。
しかし、ある1冊の原爆の写真集に出会った時のことだった。当時小学校低学年であった私は、言い尽くせぬ陰惨さに心が締め付けられ、初めて戦争が空想の世界では無いことに気づかされた。「好きだと思ってごめんなさい。戦争は・・・恐いもの。」その本を図書館へ返却することすら恐ろしく、これをきっかけにずっと「戦争」を避けて続けた。終戦記念日はテレビを見ない、授業で習った日にはどうにか気を紛らわせる、今急に日本で戦争が始まったらどうしよう。「戦争」は私にとって、善悪も倫理も歴史も何も関係のない、ただの「恐怖」の塊だった。
次の転機は高校一年生のある日、戦争を体験した人の声を詩を耳にした時だった。 その時、私の異常なまでの戦争への恐怖が「死んだ人の姿がキモチワルイ」という考えのためであったことにようやく気付き、自身の愚かさにぞっとした。なんと浅はかな・・・愛する家族・友達のそんな姿を気持ち悪いなどと思うはずがない。「ごめんなさい。」私は前以上に申し訳なくなって60年前に謝罪をした。
戦争を知らない世代だけの世の中がやって来る。私は、やはり想像にしか過ぎない自身の中の「戦争」に、これから幾度と無く謝ることになるのだろう。けれど、想像力をめいっぱいはたらかせて、まずは向き合おう。そう思った。