孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
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人間というのは、視覚に非常に特化した動物であるので、例えば「印象」や「概念」のようなものを「イメージ(=画像)」という言葉で表現してしまうというのは、やはりそういった心の中にある正体の掴みにくいもやもやしたものをとりあえず画像ファイルとして保存しているからなのではなかろうかと、愚考するわけである。そして、音楽を聴くときにでも、人は音像を常に可視化しながら聴いているのではないかというのが私の仮説である。
私がこれを思いついたのは、電車の中、ポータブル音楽プレイヤーで音楽を聴きながら、窓の外をぼうっと眺めているとき。イヤフォンから流れる音楽を景色に貼り付けながら鑑賞しているかのような気分に囚われた。それは、楽譜を左から右へ読んでいく行為とも重なる印象があった。顧みるに、部屋に篭もってコンポで同じ音楽を何度も聴いていると次第に飽きてくるが、次々に移り変わる景色に音楽を投影しながら聴いていると、音楽の中に新しい発見をすることが多いように思われる。
芸術は「体験」である。作品に含まれる作者の表現などは案外比重の低いものだ。作品に一通りの解釈しか存在しないとすればそれはただの「情報」である。自分固有の芸術体験を大切にしていきたいものだ。
私がこれを思いついたのは、電車の中、ポータブル音楽プレイヤーで音楽を聴きながら、窓の外をぼうっと眺めているとき。イヤフォンから流れる音楽を景色に貼り付けながら鑑賞しているかのような気分に囚われた。それは、楽譜を左から右へ読んでいく行為とも重なる印象があった。顧みるに、部屋に篭もってコンポで同じ音楽を何度も聴いていると次第に飽きてくるが、次々に移り変わる景色に音楽を投影しながら聴いていると、音楽の中に新しい発見をすることが多いように思われる。
芸術は「体験」である。作品に含まれる作者の表現などは案外比重の低いものだ。作品に一通りの解釈しか存在しないとすればそれはただの「情報」である。自分固有の芸術体験を大切にしていきたいものだ。
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