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鴨川沿いの桜が見ごろを迎えた。2・3日前、東岸を少しばかり歩いたが、あたたかな陽気の中で青空に映える染井吉野は、典型的な美しさを誇っていた。
いま「典型的」と言ったのは、私があまり感動しなかったからである。最近、満開の桜を見て心を動かすことがなくなった。ある友人にそう言うと不可解な顔をされたが、これは私の事実である。それこそ「典型的」すぎるからか、あるいは私がへそまがりなだけなのか、理由は分からないが、とにかく桜はさして私の心を乱しはしない。
それよりも、桜と柳、連翹(レンギョウ)と雪柳といった色の配置や構図を私は美しいと思った。鴨川沿いには枝垂柳と染井吉野が交互に植えられていて、桜色と若草色のコントラストが見事である。そこに連翹の黄と雪柳の白がアクセントとして加わる。
この風景には絶対的な勝者が存在しない。それぞれの花が自分の魅力をいかんなく発揮し、風景全体を支えている。青空や白い雲、それらを映す水の流れも不可欠な要素だ。いくら桜が美しいといっても、黄や緑や白の助けを得ずしては、その魅力は半減してしまうに違いない。
もちろんこの国には、吉野山のように、一面桜木に覆われた生物学的には異常な地帯も存在する。それを美しいと思う人は思うであろう。だが、そもそも桜の花が美しく見えるのはその幹が黒いからだ、と、こんな理屈が成り立ちはしないだろうか。桜の幹がピンク色だったならどうであろう。それは極端だとしても、白樺のような淡い木肌だったならどうであろう。桜花の存在感は実際より薄らいでしまうのではなかろうか。
要は、桜の花はその背景や対比物の存在によって際立って見える性質をもつということである。桜の花ひとつに注目してみればそれは実に華奢なもので、日本人の美意識を背負って立つだけの力があるとはとても思えない。それがたくさん集まり、黒々とした幹に映え、周囲の草花に支えられてはじめて艶やかににおうことができる。桜というのはそういう花なのだと思う。
とは言うものの、私は桜を憎むものではない。春に咲いてくれなければ、私とて淋しい気分になるであろう。既成の美に対し、ちょっと喧嘩を売りたくなっただけである。