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川の流れを眺めていた。夜の川はとても静かで、街灯の照らす明かりを受けた部分だけが白くキラキラしていた。そのキラキラをみて初めて、川が流れを持っていることを思い出した。当然のことなのだけれど、誰も見ていない夜にさえ川は律儀に流れているんだなぁと感心した。今晩だけではない、この川がこの地球上に存在することになったまさにその日から、上流から下流へ流れ行く作業を止めてはいないことに感心した。
見えないものを見ることの大切さは、他人から教えられても十分には理解できないのかもしれない。なぜなら、それは見えやしないから。私たちの目が捉えることができるのは一定の大きさの、一定の距離の、しかも一定の電波光線に限られている。常に私のそばにあるはずの「心」でさえ見えないのだ。その実に狭い情報に、意味を見出すことは難しくかつ面倒だ。見えないものを見ようとせずとも、私たちは十分に安全にかつ合理的に生きられるのだから。そんな「幸せ」な時代なのだから。
私たち人間はひどく忙しく、それでいてひどく退屈だ。与えられた仕事をただ単にこなし、漠然と頑張ることの忙しさ。それとは反比例して、満たしてくれるものを心が探して止まないという退屈さ。しかし、それぞれに忙しく退屈な人間の時間軸とは異なる世界で、ゆっくりと流れる大河がある。その河は太古の昔から宇宙創生の時から脈々と流れ続けている。誰も見ていない夜にさえ律儀に流れてきた。(誰も見ていないので断言できないが)
見えないものを見るとは、畏れながらもその大河を構成する一滴の水を不意に頂くことではないかと思う。この大河が真理だとは言い切れないが、この水の美味しさは格別だろう。それで十分だ。
「日常の時間をふと止めて、大河の流れを感じてごらん。」本誌「孝太郎」そしてこの「デイリー孝太郎」は私にそう囁いてくれた。見えないものを見ようとすることの意味を教えてくれた。きっとこの人がいなければ、私は相変わらず忙しさにくじけそうになり、退屈さに苛立っていただろう。さて、これからしばらくの間、私は忙しい世界に戻ってみようかと思う。でも大丈夫、河の流れはもう忘れないから。