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 『レベルE』という漫画の中で、どんな超常現象が起こってもそれはポルターガイストだといってそれだけで済ましてしまう者に対して主人公が『あの人はものに名前さえついてりゃそれでなんの不安も感じない人だ』と評価するシーンがある。
 これはその人の単細胞的性格を表すシーンなのだが、そんなにバカにできたものじゃない(笑ったけど)。私もどちらかというと名前さえあれば満足してしまう方だからである。よく知らないものでも名前さえあればとりあえず知っている気になる。
 人間は自分の知らない不気味なものに名前をつけて認識しようとするものであり、これもその類いなのかもしれないが、当然よいことではなく、それぞれのものが持つ理屈の知識はあった方がよいだろう。
 しかし我々の持つ知識のほとんどは我々の実生活から離れたところにあって、しかもそれが正しいかどうかなんて確認する機会はなかなかない。実質的に虚ろな知識があるということである。そうした知識というのは、確かに分かってはいるけれども自分にとって重みの感じにくいものであるから、それを本当に知識と呼んでよいのだろうかと思うことがある。どこまでものについて知っていれば知識と呼べるのか、よく分からない。
 死ぬまでに得た知識の中で、虚ろな知識のままであり続けるものは数多いだろう。しかしある機会で虚ろな知識が重みを持った瞬間はやはりにやりとしてしまう。虚ろな知識は持っていてもあまり意味はないのかもしれないが、もしかするとそんな喜びのためだけに持つのかもしれない。ならばできるだけいっぱいにやにやできる方が得だな、と思う。
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