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――皆の友達などというものは結局誰の友達でもないのだ
誰か偉い人の遺した名言の様であるが、これは或る語学のテキストの和訳問題を私が訳してみたものである。
この問題の作者の意図としては、八方美人で居るというのも考え物ですよ、というぐらいの箴言なのだろうが、私としてはもう少し穿った(寧ろ捻くれた)読みをしてみたい。私には今「友好関係というものは総て何らかの敵の存在を前提としているのではないか」という仮説が浮かんでいる。この仮説を真とするならば、敵が居ないものには友達も居ないということになり、冒頭の箴言が帰結として得られることになる。
その昔、オーストリアの女帝マリア=テレジアは、プロイセンと対抗する為、長らく敵対していたフランスに娘アントワネットを嫁がせて国交を恢復した。中国国民党と共産党が合作していたのは、言うまでもなく、軍閥や日本に対抗していたときである。学生時代、共通項のない同級生と仲良くなるための話題といえば、大体が教師の悪口であったろう。「愛=憎×憎」などと書いてしまうと少し厭世的に過ぎるであろうか。
ところで、ここへ来てもう一つ、私の頭に浮かんだ考えは「何も敵が人間である必要はない」というものである。何か共通の事象を共に憎むのでも友人関係は成り立つであろう。人が生み出した「憎むべき事象」、例えば来週のテストが鬱陶しいとかであれば、畢竟教師が恨まれてしまうことになってしまうであろうが、人に由来しない「憎むべき事象」、例えば「この世の不条理」といったようなものであれば、誰もが共通して憎むことが出来るし、世界中の人と友達になることだって出来るのではないか。
当初の意に反して希望的な結論が出てきて私自身も驚いているが、こうすると新たな敵の可能性として浮かび上がってくるのが、神の創ったこの世の条理を愛している人たちである。いやはや、巧くはゆかないものだ。