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 烏丸通を歩きながら、いつも以上に無表情な街の雰囲気を私は感じとっていた。伏せがちだった視線をゆっくり上げてみると、無表情さの原因はすぐに分かった。街路樹の銀杏に葉が一枚もないのだ。今からまさに盛りを迎えようとしていた黄葉を前に、銀杏たちは幹とそれに付随する主だった枝のみを残し、小枝から葉からすべてを取り去られて立ちすくんでいた。

 都市は季節を嫌う――私はそう思った。面倒だからだろう。散り積もった黄葉を掃除するのが面倒だからだろう。無論、銀杏の葉がスリップ事故の一因になることは私も承知している。だから、銀杏の枝をばっさりやってしまった行政当局をかたくなになじるつもりはない。ただ、私が感じるのは寂しさである。黄葉が排除の対象となることへの寂しさである。

 時間概念には大きく分けて二種類あるとよく言われる。循環的時間観と直線的時間観がそれである。私は詳しくは知らないが、農耕社会の中で育まれていった循環型の時間概念が、時計の普及と工場労働の進展によって直線的になっていった、というのが概ねのところであろう。

 季節とは、時間循環の過程を区切ったものであり、したがって農耕社会のありかたと密接に関係する。生活の糧となる植物が、いつ芽生え、花を咲かせ、実を結び、そしていつ枯れてゆくのか。あるいは家畜の繁殖期も季節の巡りにしたがってやってくる。季節とは、要は生まれたり死んだりすることなのだ。季節の巡りをつくりだすのは、生命の巡りである。

 とすると、都市にとって季節はやっかいものだ。なぜなら生まれたり死んだりするからである。都市は死を禁忌とする。出来る限り隠そうとする。それは、都市の前提となる文明という名の巨大な生き物が、自らの死をどこまでも恐れるからだと私は思う。だからこそ都市は、生命の循環から目を背けるために、時間を左から右へ、不変という幻想とともにまっすぐに流した。そして都市は、二つの「生」――すなわち「生まれること」と「生きること」からも目をそらすようになった。

病院が出産を拒否するようになった。「命の大切さ」を「学校」で教えるようになった。

私は農耕社会に戻ろうなどと叫ぶものではない。しかし、生命の巡りを、ある種の諦観と寛容の心でもって受け入れることは必要だと思う。少なくとも私の幼児期においてはそうであった。父は、銀杏の落葉が織りなす黄色い絨毯の上を、文句も言わずのろのろ運転していた。誰に言われるでもなく掃除してくれる人がいて、それを手伝いに来る人がいて、数日後、車道は元のアスファルトに戻っていた。

街路樹の黄葉を愛でる、そのくらいの心の余裕を持たなくては、極度に合理化された都市に生ずる深刻なひずみの数々は、決して解消されえないように思う。

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