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「秋深み」とされる頃に入ってきたでしょうか。下宿生活をしている私は季節を感じるようなテレビを見ることもなく、舌で季節を味わうこともなく、身の回りも初めて来た場所ゆえ何処が変わるのか分からない、ときて、ただ気温の低下のみで秋を感じている有様です。その中で、他のデイリー孝太郎筆者さんたちが秋を題材に風情ある文章を書いてらっしゃるのを見ると、嫉妬の心が募るのと並行して、秋になった時の世間一般の人々の(一種月並みな)気持ちには不思議さを感じます。
何故か、秋には「~の」がつきます。食欲、芸術、読書、スポーツ…。秋以外何をするんやとも言いたくなりますが、秋というと何か事を行う季節のようです。生理的に夏ばてが収まるゆえ食欲は納得できます。しかしその他は何故でしょうか。涼しくなるから?では春は。単なる気候の変化のみではなさそうです。
もう一つ秋の一般イメージとして、「寂」があります。蝉の声が静まり、葉は枯れる。奥山で鹿が啼く夕暮れが寂しいのは古今東西いづこも同じなのです。これは視覚、聴覚を初めとして非常に感覚的なもの、しんしんと雪の降る冬への移行期として、多くのものが静まっていく季節からの印象でしょう。こちらは春との違いは明白です。書き忘れましたが、収穫と言う行事も重要な印象を示していることでしょう。
秋に付き物の感覚を多少挙げてみましたが、こう見ると秋にセンチメンタルさを特別感じるのは、人間の晩年の姿に近いからかな、と思いました。晩年の姿がどんなものか、体験したことはありませんが。成熟し、充実し、それでいて死へと着々と進んでいく。それを投影した見方をかなり率直なレベルで秋に行っているのではないでしょうか。