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私は高校時代、英語がなかなか好きになれないで苦労したのを覚えている。なぜ、日本語という使い慣れたツールがあるのに、他の言語を学ばなければいけないのか。学んで使うことが出来ても私のレベルではせいぜいぎこちない意思疎通が可能な程度である。それなのに、こんなにも貴重な時間を割いてこの実用化されたよく分からない言語を学ばねばならないのかと、実に不満でいっぱいだった。
言語についての専門的な知識なんてものは高校の頃と変わらずにゼロに近いが、しかし最近ようやくそれぞれの言語が持つ雰囲気のようなものを感じられるようになってきた。発音やリズム、文字の形、語彙・・・ただの記号に過ぎなかった言語にもこんなにバラエティーに富んだ顔があるのだ。無数の言語が存在することに対して不便さしか感じていなかったが、世界の言語をばらばらにした神の意図はあながち間違いではなかったようだ。
言語にはそれを話す人々の歴史が詰まっている。それが望まれたものでもそうでなくとも、言語には悠久の歴史が刻印されている。書物にも遺跡にも人の心にも残っていない歴史でさえ、言語は知っている。しかも人間がこの地上に姿を現したその日から、1日たりとも休息することなく言語は生き続けているのだ。一文字一文字、一音一音では何の意味も持たないのに、それらの組み合わせで人間の思いつく限りのことを表現できる。言語は背負った過去と未来へ向かう無限性の両方を兼ね備えている。
言語それぞれの顔というのは特定の人間集団(民族と定義されるもの)によるのだけではない。例えば同じ日本語でも地域でニュアンスは全く異なるし、それどころか一人一人によって紡ぎだされる言葉もそれぞれの人間の色に染まっている。きっと一個人というミクロな視点に立っても、言語は歴史的なものなのだろう。その人間が生まれてはじめて耳にした言葉、出会った人生の先輩たち、住んだ地域、そしてその環境を形成したいつかの出来事・・・彼の操る言葉にも壮大な歴史が積み重ねられ、そして共に成長してきた彼の人格を通して言の葉は紡ぎだされる。それは世界の一部分だけれども世界の何もかもと関わっている、歴史的産所産だといえよう。
拙いながらもこの私の口から出てくるものにも、それなりの壮大な歴史が詰まっているようだ。いつまで私の体がこの地上に存在するかは分からないけれど、その最後の日まで、私の言語と一緒に成長していきたい。そして私と共に生きた人間やわたしの言葉を見聞きした誰かの言語形成に少しでも寄与して欲しいと思うのだ。この身が朽ち果てようとも、私が一生涯共に生きた私の言語は生き続ける。なんとも心強い理論ではありませんか?