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 自分の生きるこの世界は自分の誕生とともに始まり、死とともに終わるのではないかと思うことがある。つまりこの世界は夢のようなもので、何かから生まれた「私」という意識のようなものが創り出したものに過ぎない、ということである。突拍子のないような考えだが、完全に否定することは誰にもできない。もっとも世界に存在するものの多様さを考えれば、それらを全て自分が想像して創りあげたものなのだなどとは到底信じられないのであるが。
 この世界における自分とは一体何なんだろうかということは度々頭によぎる疑問である。自分はほんの小さな存在に過ぎず、一方世界は無限大に広い。しかしながら現実的には一つの心に一つの体しか持ち得ない人間に知れる世界はごくごく狭く、実感されるものとなるとさらに狭い。世界の広さを考えると自分の行いなど痛くも痒くもないようなものであるが、自分に見える狭い世界では非常に大きな影響を持つことが多い。大きな恥をさらしてしまったときに、こんな一時の恥など世界から見ればちっぽけなものだ、と考えて落ち込まないようにする、というポジティブな思考法があるが、普段は自分に見える狭い世界が世界の全てとほぼ等しいので、自分の失敗は小さなものには思えないだろうし、実際に小さくない。そのため実践するのは難しいだろうと思う。
 普段はどうしようもなく狭い世界の方に目が行きがちである。そんな中で最初に述べたような世界=夢という考えも生じたのであろうと思う。仮にその考えが正しいとするとこの現実にいる自分も仮の姿ということになる。夢を見ている自分も結局ちっぽけなものなのか、それとも神のような超絶した存在なのか。妄想ばかりがどんどん膨らむのである。

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