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〈陸〉『孝太郎』から遠く離れて
“『孝太郎』から遠く離れて”というタイトルに、私はふたつの思いを込める。ひとつは、『孝太郎』からいったん距離を置き、全体像を客観的に分析することによって、今後〈孝太郎〉とどのように向かい合っていくべきかを考えたいという思いである。もうひとつは、親元を離れ、自立してゆく子どもの心境である。『孝太郎』という表現・交流媒体をきっかけにして、少しずつ独自の表現活動を展開していこうという意気込みである。前章までにおいて、私は主にひとつめの点について詳しく述べてきた。この章では、ふたつめの点について、私の現時点での考えを述べておこうと思う。すなわち、これから書くことは、私自身についてである。
私は、大学で哲学を学ぶつもりである。一口に哲学といっても、人生論から国家論・宇宙論まで幅広いが、私のテーマは「〈こころ〉の本質、〈ことば〉の本質、およびそれらの相互関係」である。いま「テーマ」という語を用いたが、厳密には「糸口」とか「きっかけ」と言った方がよい。哲学の理想的な体系は、限定的な事象のみならず、世の中の森羅万象に当てはまるはずだからである。私も、哲学を学び、哲学を行う限りにおいては、〈すべて〉を説明しうる体系の構築を目指す覚悟を持っている。ただ、どの問題を重要視するか、何を突破口とするかは人それぞれ異なっていてしかるべきであり、私の場合は〈こころ〉と〈ことば〉の問題を最も強調することになるので、それを「テーマ」と言ったまでである。
〈ことば〉に関しては、私は中学・高校時代から非常に強い関心を抱いていた。〈ことば〉で何かが伝わるのはなぜか。伝わらないのはなぜか。〈ことば〉を超える表現はあるのか。〈ことば〉を〈ことば〉で説明することに限界はないのか。疑問は尽きなかった。ひとつひとつの疑問を解決すべく、参考になりそうな本をいくつも読んだ。部屋にこもって考え込んだりもした。ある程度の答えを見いだせることもあったが、その多くは今も疑問符のまま頭の中に残る。なかなか一筋縄ではいかない問題が多いけれど、しかし人の世が〈ことば〉によって動いていることは疑いない事実である。特に現代は「情報化社会」と言われ、その〈情報〉の多くは〈ことば〉である。〈ことば〉に対する哲学的考察は、私の興味の範囲のみならず、社会的需要という観点から見ても、力と時間を費やすに値する重要なテーマだと思う。
哲学には「言語哲学」という分野が現存するが、別に私はそれにこだわるつもりはない。「言語哲学」は、現代哲学に限って言えば、ウィトゲンシュタインを源流とし、海を渡ってクワインらへとつながる一系譜である。「言語哲学をやる」という風に決めてしまうと、彼らの流れを学び、その延長線を描く仕事を担うべきだという錯覚に陥ってしまうのではないか、と私は恐れるのである。もちろん「言語哲学」の思想は大いに参照することになるであろうが、それは自分なりの〈哲学〉を推し進める過程でしかない。
〈こころ〉の問題に関しては、生物学者・小林茂夫との出会いを語らなければならない。私は、2008年度の前期に受講した「生体情報論」という科目で、小林本人およびその思想と初めて出会った。それは私にとって極めて衝撃的な事件であった。以後、私は小林研究室に頻繁に通うようになり、数人の仲間とともに〈こころ〉について熱い議論を続けることになる。
小林の提唱する〈こころ〉に関する説を、私は勝手に「小林細胞主義」と名付けている。以下、その概要を紹介したいと思う。小林は私の恩師であるから、本来ならば敬称を付するべきであるが、ここではあくまでもひとりの学者として話題にするため、あらゆる敬称を略することにする。
〈こころ〉という語の指す範囲がまず問題になるが、とりあえずは〈感覚〉および〈意識〉のことだと考えておけばよい。〈こころ〉の話になると、〈無意識〉とか〈夢〉などといったややこしい概念を挙げたがる人も多いが、そうした概念は〈感覚〉および〈意識〉の基本的な仕組みが解明されてはじめてその上に成り立つものであって、まず我々が手つけねばならないのは「熱い」「痛い」といった単純な感覚のメカニズムなのである。
ところでいま私は「熱い」という〈ことば〉を使って感覚を表現した。これは生物学にとっては大きな障害である。我々ヒトは熱湯に手を入れたとき、そこで得られた感覚に対して「熱い」という〈ことば〉を当てはめ、表現することができる。ところがたとえばイヌにはそれができない。彼らが〈ことば〉を持っていないがためである。このことから、「イヌは「熱い」とは思わない」というもっともな理屈が生じる。しかし、我々が「熱い」と表現するようななんらかの〈感覚〉は、おそらく熱湯を浴びたイヌにも発生するはずなのである。そこで、ヒトが「○○」と感ずるような感覚が、ヒト以外の生物において生ずる場合、それを英文式の一重引用符を用いて‘○○’と書くことにする。熱湯を浴びたイヌは‘熱い’と思うし、餌にありついたネズミは‘おいしい’と感ずる。
さて、ここで根本的な問題に立ち返るが、生物とは何だろうか。さまざま異論はあるだろうが、生物は「自己を保存する」という重要な性質を持っている。小林は、生物を考える上で、この点を最も重視する。生物が自己を保存するということは、保存されるところの〈自己〉なるものが存在しているということである。そして、生命の歴史は原初より途切れることなく現在に至っているのであるから、同じ意味で〈自己〉なるものは生命誕生の原初より途切れることなく存在し続けているということになる。したがって、例えばゾウリムシのような単細胞生物にも、〈自己〉なる概念は間違いなく適応されうるのである。
〈自己〉が存在するということは、‘自分は自分である’という最も基本的な意識があらゆる生物には備わっているということである。保存すべき〈自己〉について自ら分かっていなければ、個体は〈自己〉を保存すべく努力することができないからである。これこそが〈こころ〉の本質ではなかろうか。小林は、それゆえ、「ゾウリムシにも〈こころ〉がある」と断言する。小林細胞主義はこの大前提から始まるのである。
生物が〈自己〉を保存するためには、さまざまな活動が必要である。そのうち最も重要なふたつが、餌を食べることと、快適な環境に身を置くことである。なによりもまず‘おいしい’餌を食べ、‘こわい’敵から逃れなければならない。生物は、周囲の刺激から発生したさまざまな〈感覚〉をもとに、自らの行動を決定するのである。
そしてもうふたつ、小林細胞主義を語るための前提がある。ひとつは、「〈こころ〉は脳で生まれている」ということ、もうひとつは「〈こころ〉は力と同様、二種類のたんぱく質の結合によって生み出される」ということである。ひとつめは現代では当たり前になった見解であるが、ふたつめは生物学的には極めて異端的な考え方である。ミオシンとアクチンという二種類のたんぱく質が結合し、そこにATPが加わることによって力が発生するように、一部の脳細胞の中には〈こころ〉を生み出すような二種類のたんぱく質が存在しているに違いない。これが小林の仮説である。そしてこれらのたんぱく質を含み、〈こころ〉を生み出す働きを担っている特別な細胞を、小林は「自己細胞」と呼ぶ。ヒトの脳のどこで〈こころ〉が生まれているかを特定するには、この「自己細胞」取り出して調べればよいということになる。ところが、ヒトの脳は膨大な数の神経細胞およびグリア細胞のかたまりであり、「自己細胞」を手作業で特定することはほぼ不可能に近い。そこで小林はゾウリムシなどの単細胞生物に注目したのである。単細胞ならば、それ自身が「自己細胞」であるはずである。ということは、〈こころ〉を生み出す物質は、その数十ミクロンの閉ざされた世界の中に必ず存在するに違いない、ということになる。この思い切りのよさが細胞主義の魅力だ。
小林研究室では、現在、「自己たんぱく」の特定作業が進んでいる。ゾウリムシや、より動きの活発なユープロテスといった単細胞生物にさまざまな薬品を投与し、たんぱく質のラベルになる物質を探している。「自己たんぱく」が特定されれば、そのもとになる遺伝子を知ることは簡単だ。遺伝子が分かればその部分をノックアウトしたゾウリムシやラット、すなわち「〈こころ〉を持たない生物」を設計することが可能になる。そうなれば、それらのゾンビ生物がどのような行動を見せるのか、はたまた生物として機能しないのか、という点に注目が集まることになろう。もちろん研究の過程はもっと複雑で困難なものになるであろうが、いずれにせよ、小林細胞主義は、このように夢と恐ろしさを兼ね備えたとてつもない魅力を秘めているのだ。
小林細胞主義は、従来の脳科学では一切明らかにされてこなかった〈こころ〉の仕組みそのものに迫ろうとしている。もし実験によってその正しさが証明されれば、生物学だけでなく、哲学にとっても大きな価値がある。名だたる哲学者たちが、神や精霊や絶対理性を持ち出して説明を試みた〈こころ〉というものの実体が、非常に明快に示されるからである。ただし、問題の全面解決にはさらなる哲学的努力が必要である。心身問題の「難しい問題」(hard problem)と呼ばれる問題、すなわち「脳内の物理現象が、どうして我々が日常経験するようなありありとした〈こころ〉を生むのか」ということについてまでは、残念ながら小林細胞主義は答えを与えられない。この難問についてうなりながら考えることを、私は自分の仕事の一環としたいと思っている。
哲学は基本的に、ヒトすなわち人間の営為に洞察を加える。したがって〈こころ〉について考えれば、即座に〈ことば〉についても考えざるをえない。我々が絶えず行っている、内的な思考の反芻および他者とのコミュニケーションは、〈こころ〉を〈ことば〉で表現することによって成り立っているからである。こうして〈こころ〉の問題は〈ことば〉の問題と固く結びつき、両者の相互関係を考えることもまた重要になる。ハイデガーは確か、「わたしがことばを語っているのではなく、ことばがわたしにおいて語っているのだ」という趣旨のことを述べているし、チョムスキーは「言語学は心理学の一分野である」と断言している。例えば彼らのこういった言葉が、〈こころ〉-〈ことば〉問題をひも解く手がかりになることもあるだろう。
哲学をやるからには誰もやったことのない面白いことをやるべきだと私は思う。さまざまな著作に触れ、あちこちに出かけ、時に部屋にこもって思索にふける。その過程で新世界が開けてゆくことに私は賭けよう。賭けに勝っても負けても、帰ってくる場所は『孝太郎』である。なぜなら『孝太郎』は、私の〈ことば〉のはじまりであるのだから。
(革島秋遷/終)