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Present for you

 

「贈与」という行為について、先日授業で習った。古くから他人に贈る物や贈る行為には、人間の魂が乗っかっているとされてきた。それゆえに、われわれは「お返しをせなアカン(=互酬性)」と感じるわけである。また、死者の埋葬の際に財物を供えたり、一緒に棺に入れたりするという行為にもその性質が見て取れるという。

 

しかし、キリスト教が主流の西欧社会では死者を生きているかの如く扱うことはしないため、世界史のわりと早い時期からそういった供え物の類が成されなくなった。また、一般の贈与(プレゼントをあげたりだとか)の基盤は、人道精神・愛情なのだからお返しは不要だという考えが通説になった。他には中世に盛んになった教会への寄進(=これは見返りを求めていない贈与)の影響も多大にあり、結果西洋には贈与を受けた際の「お返しをせなアカン」精神が発達しなかったそうだ。

 

逆に日本の(東洋の)その「お返し」精神は、封建社会(御恩と奉公etc)との関わりが強かっただの、それは契約の概念から生じただの様々に言われている。(らしい)

 

学説がどうであれ、現代の私たちもやっぱり何かを貰えば「お返しをせなアカン」と当たり前のように感じるは事実だ。西洋でその感覚が薄いと聞いて、なんだかびっくりしたくらいだ。「義理」だとか「恩」だとかはあまに日常的には使わなくなったが、「お返し」精神は連綿と続いている。確かに「お返し」も度が過ぎると良くない。本来の歓送迎会・忘新年会の意味を失った宴会のやりすぎ、形式化した中元歳暮、何割以上と決まったお祝い返しや香典返し・・・「贈与」についてのなんだか不思議な慣習は数多くある。けれど、何かを貰ったときやしてもらったとき「これは相手の好意だから」といってただ貰うだけでなく、「お返しをせなアカン」と反射的に感じてしまう方がよっぽど人間臭くて、私は好きだ。自分が尊大になっていたら「ありがとう」なんて気持ちは、すぐに忘れ去ってしまうものだ。いつも私たちに「ありがとう」と思い出させてくれる、その役割だけでも「お返し」精神の存在価値は十分にあるだろう、そう思った。
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