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追憶の線引き
私の趣味は過去の思い出に浸ることだ。と、言ってもいいくらいに自分の日記やアルバムを見返すことが好きである。何時間も何度も見返すのだ。そうして浪費した時間と行為の不毛さを目の当たりにして、その追憶の行事は幕を閉じる・・・というのがいつものパターンである。
今よりもっと拙い文章、住む世界の狭さ、あどけない表情・・・過去の私はまるで私でないみたいだ。一方で、その日記を書いたときの自分の思い、その写真を撮ったときの自分の気持ち多くの共感とともに、今もありありと蘇ってくる。
思えば、いつからが過去の自分で、いつからが現在の自分なのだろう。時間の流れに沿って刻々と自分は更新されてゆくので、現在の自分は「今このとき」の一瞬の存在でしかない。これが厳密には(そして一般的には)過去と現在の区別だろう。しかし、私はここではそんな細かいことを言っているのではない。「あの頃は子供だったなぁ。今ならばそんな事はしないのに。」と、当時の自分を振り返る時が多くの人にはあるだろう。そういうような、今現在の自分の行動パターンや思考パターンと、大きくかけはなれた「過去の自分」のことを言っている。
日記を何度も読むといったが、おそらく読むたびごとに私の捉え方も多くの変化を遂げているのだろう。日記を書いた「過去の自分」を、より「現在の自分」に近くなるように解釈しているのかもしれないし、逆に「現在」との差異を見出すように解釈しているのかもしれない。
いずれにせよ追憶によって「過去の自分」を捉えなおすことは建設的とまでは言えないが、少なくとも無意味ではないだろう。歩んできた歴史を振り返り、過ちを犯さぬよう対策を考えるように、「未来の自分」に何かしらの導を与えてくれるものであればいいのだが。
そんな希望を抱きながら(半ば慰めとも言えるかもしれない)、私は追憶の喜びに浸って毎日をすごしている。