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数日前から、尾てい骨のあたりに違和感があるのです。
原因はわからないのですが、仰向けに寝ていると軽い痛みさえ感じるときがあります。
尾てい骨なんて部分を意識したことなど、今まであったでしょうか?
なんだか、鷲田清一っぽく「尾てい骨が突如としてあらわれてきた!」とでも言ってみたくなります。
しかし、もとはしっぽがあったんでしたっけ。あの位置に。
そう考えると、なんだかぼんやりもやもやとしたものが頭の中に生じてきます。
人とサルはどう違うのだろう?
人以外のものを人は「動物」と呼んだりしていて、(人間と「動物」の間には区切りがあるように扱うこともあって)、そしてときにその「動物」には「心」がないかのようなふるまいをする。
だって、「心」あるものに対してどうしてやすやすと無神経に駆除、殺傷、あるいは「物」同然の扱いをできるでしょうか?
いえ、私は動物愛護を訴えたい訳ではありません。
ただ心というものの存在についてちょっと気になってきたのです。
自分の心がどういうものか、それはよくわからないかもしれないけれど、とりあえず、
「私には心があります!」
と言うことはできるのではないかと思います。
けれど、他人についてはどうでしょうか。
普段生活を共にしている人たちの多くに対して、私は、あの人には心がある、と思うことができますが、ごくたまに、「あいつには心があるのだろうか?」と思わされる行動をとる人間がいます。(身近にはまずいませんが)。
また、「それじゃポチがかわいそうだ」などと犬に心があるかのようなことをいう人もいます。
心の存在などとても確かなものではない気がする。
私はその存在を「信じる」しかないのでしょうか。
あぁ、確かに、心という日本語の曖昧さに私がふりまわされているだけかもしれません。多分そうでしょう。
物質たる脳からなぜ心が生まれるのか?という問いに答えんとする学問においては、心とはどういうものとしてとらえられているのでしょうか。
心がどういうものかわかったら、「心やさしい科学の子」である鉄腕アトムのような、「心をもつロボット」をつくることはできるようになるのでしょうか。
他人の心について、私が、相手のとる言動から無意識に判断して、ふと考えたときには「あの人には心があるぞ」、と思える、というこの仕組みからすると、私にそう思わせるような行動をとるためのプログラムさえつくれれば、そのようなロボットも不可能ではない気がしてきませんか。
すみません。尾てい骨をこんなお話に化かしてしまいました。