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 小学校時代、私は「音楽クラブ」に所属していた。リコーダーやオルガンや手軽な打楽器を使って合奏を楽しみ、時には歌も交えて主に校内でその成果を発表する、そんなクラブである。運動会では鼓笛隊に早変わりし、入場行進の先頭を任された。
 そんな音楽クラブに与えられた数少ない公演の機会が、毎年敬老の日に催される「敬老芸能福祉まつり」での発表だった。「青い山脈」「野に咲く花のように」「北の国から」など、お年寄りにとって懐かしいような、受けがよさそうな曲を選んで演奏した。
 一通り演奏が終わり、私たちが一礼すると、会場から大きな拍手が起こったものだった。私は拍手を浴びてとても得意げな気持ちになった。「自分たちの演奏がすばらしいからこそこれだけ大きな拍手をもらえるのだ。」私たちは(少なくとも私は)、当然のようにそう考えていた。
 今になって、そうではなかったと気付く。それなりに整った演奏とはいえ、所詮あどけない小学生のすることだ。音楽的にはとても完成しているとは言えない穴だらけの合奏である。お年寄りがくれた拍手は、私たちの演奏のすばらしさに送られたものであるはずがなかった。彼らはおそらく、ありていに言えば、私たち小学生の一生懸命さに拍手を送ってくれたのだと思う。
 10歳前後の小さな子どもが、一つの音楽を皆で協力して練習し、大勢の前で披露するということ。そこには、小さな挫折や小さな苦労や小さな感動が沢山詰まっている。それを優しく包み込んでくれるような拍手を、お年寄りたちは送ってくれた。彼らは、大きな挫折、大きな苦労、大きな感動をいくつもいくつも味わってきた、そんな人々である。
 「敬老」の意味はそういうところにあるのだろう。70年・80年という長い歳月を生き続けてこそたどり着ける境地。名誉とか栄光とか財産とか、そんなものには無縁でも、ひとつの完成した人間として静かにたたずんでいる。気さくな人も気難しい人も、愚直に生きた人も狡賢く生きた人もある。人によって様々な生き方があるし、その方法論は誉められたりけなされたりする。しかし、もっと大きなスケールで眺めてみると、お年寄り一人一人の存在そのものが「人生」という難題に対する貴重な解答であり、具体例であると私は思う。70年・80年という長い時間を生き抜いてきた原動力は、他でもない、そのお年寄り自身が生み出したものなのである。「長い間生きてきた」という、その単純な事実に対し、我々は深い敬意を払わねばなるまい。

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