孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
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手に入れた後で手に入れたことを後悔するものは色々あるが、その中でも特にひどいのは人形である。何故ならそれをやがて処分する際に最も悩み、躊躇い、決断しなければならないからである。
他のものと違い人形に生命と等しきものを感じるのは、私だけではないと思う。あるのはただのモノなのに、誰かと一緒にいるような感覚がしてしまう。人形からこちらに話しかけてくることはないし私も人形に話しかけることはしないが、ずっと見られている気持ちがする。
人形の眼に注目してみると、大体の人形の眼は他の部分とは違う特別な素材でできていることに気付いた。眼は人形の特に強調される部分であるらしい。ということは眼が人形の存在感の源なのかもしれない。カラスだって大きな目玉模様を恐れて近寄らない。他者の存在を感じるというのは本質的には、自分が他者に見られていると思うことよりも眼がそこにあると思うこと、なのかもしれない。
「人形」は「人」の「形」と書くが言葉ができた当時はともかく今では別に人形の全てが人の形をしているわけではない。しかし何故か人の形ならざるものでも人らしい存在感をもっている。そんな風に思うと一層人形を処分するのは気が咎める。そして部屋に置いて放っておくのも居たたまれず、ちょっと構ってやらねばならないかと気を遣う。そんなわけで人形は非常に手のかかるものなのである。
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