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〈伍〉『孝太郎』の将来
今後の『孝太郎』はどうあるべきか。我々は過去を教訓とし、一切の妥協なく検討を進めなければならない。選択肢は複数ありうるが、いかなる道をとるにしても、その道が『孝太郎』に現状打破とこれまで以上の発展をもたらすものでなければ意味はない。仮にも惰性だけで存続するならば、むしろ廃刊を決断するべきではないかと私はそう考えている。
もちろん私は『孝太郎』誕生に大きく関わった人間の一人だから、簡単に〈孝太郎〉をこの世から消し去ることは避けたいと、一方で思っている。現状を大きく変え、新たな表現の場として再出発させることが最善の道ではないだろうか。そのために考察すべき点がいくつかある。以下においてはそれらを順に挙げてゆくが、ここでは各事項に対するごく具体的な話というよりも、私の考えるある程度の方向性を示すにとどめる。具体的な詳細事項は編集委員同士の話し合いによって決定されるべきであるし、『孝太郎』の運営は最終的に編集長の意向によるものであって、一委員である私がこまごまとした提言をこの場で持ち出すことは適当ではないからである。
まず考えなければならないのは、「デイリー孝太郎」の存在である。これまで見てきたように、「デイリー」にはさまざまな難点があり、『孝太郎』の活動を停滞させる原因ともなってきた。ブログを利用するという発想はすばらしいし、担当者も精一杯努力をしてきた。しかしやはり、〈ことば〉の壁、すなわち「誰が、誰に、何のために発するのか」という問題に悩み続け、不完全燃焼から脱却することができなかった。我々は、何らかの方法で、この現状を断ち切る必要があると思う。「デイリー孝太郎」そのものを終了した方がよいのか、名前はそのままに内容を一新した方がよいのか、別の取り組みに移行すべきなのか、それはこれから考えていかなければならないだろう。とにかく現段階で必要なのは、「デイリー孝太郎」の性質を『孝太郎』元来の理念に照らし合わせ、一から検討し直すことである。「デイリー」の難点が解消されることで、担当者も週1回の義務感から解放され、時間と思考の幅を他の表現活動に向けることができるようになる。文芸誌『孝太郎』に向けられるエネルギーは、そのうちのごく一部でもかまわない。空虚な十よりも濃密な一を、我々は望むべきである。
もう一つ再検討が必要だと私が考える点は、読者の幅をどのように想定するかということである。『孝太郎』がオンライン化されて以降、特に「デイリー孝太郎」の連載に関して言えることであるが、我々は〈一般的読者〉すなわち全世界の不特定多数の人々を意識しすぎたのではないだろうか。誰が読んでもあたりさわりのないよう気を配るよりは、『孝太郎』の読者は所詮限られていると割り切って書いたほうが、具体的で率直な表現が可能になるのではないかと思う。「デイリー孝太郎」はブログというシステムを利用しているが、その性質は一般的なブログとはかなり違っている。ごくプライベートなことを思いつくままに書くのではなく、ある程度推敲を重ねた思索的な文章が要求される。これは、「デイリー」だけでなく、『孝太郎』の営み全体を通じて言えることである。文章を書くときには、〈読み手への配慮〉と〈書き手の納得〉がともに必要であることは言うまでもないが、こうした思索的文章に関しては、前者よりもむしろ後者の点が重要なのではないかと私は考えている。必要以上に全世界の一般的読者を意識すると文章が委縮するおそれがあり、したがって『孝太郎』に寄せられる文章については、オンライン上であっても、書き手が自ら納得できる表現を奨励すべきなのである。
そしてこの点が私の最大の主張なのだが、私は『孝太郎』を、我々の〈学生運動〉の一環にすべきであると考えている。〈学生運動〉と言っても、40年前のような、ゲバ棒をふりまわして催涙弾を浴びる類のものを指すのではない。あれは〈学生運動〉の極端な一例に過ぎない。〈学生運動〉とは、大学生による表現運動である。私は、大学というのは、好きなことを好きなだけ学ぶ場であると同時に、好きなことを好きなだけ表現する場でもあると思う。かつては高校の同級生であった『孝太郎』の編集委員は、今や全員が大学生である。学生である限り、我々は学生運動をしなければならない。学問の世界の最先端に身を置く以上、その中で目いっぱい駆け巡り、さまざまなものを吸い込むと同時に吐き出し、あたりをひっかきまわさなければならない。
その表現媒体として、『孝太郎』は可能性を秘めている。多様な考えを持つ学生たちが堂々と持論をぶつけ合い、切磋琢磨する。そのような場になることができれば、〈孝太郎〉自身も、その理念をかなえたことになるのではなかろうか。
我々は大学において、それぞれ学部に所属し、専門的な知識を学びつつある。そうした知識の中には、専門書によって誰でも簡単に接続できるものも多いが、他学部の人間には接続困難なものもある。特に最先端の〈生煮え〉〈半熟〉〈未完成〉な知識は、教官にごく近い人間しか知らないことが多い。『孝太郎』が、文芸を超え、そうした学問・思想の鍛錬の場になることを私はかすかに望んでいる。〈学際〉ということが声高に叫ばれているけれど、組織同士が組織的に連携するだけでは、機動性もなくたいした成果は望めない。意味のある〈学際〉は、数人の親しい交流の中からまずは生まれてくるものだと思う。我々編集委員と投稿者が〈学際的学生運動〉を展開し、『孝太郎』が〈学際誌〉へと変貌することこそ、我々と〈孝太郎〉にとって最も価値のある変革ではなかろうか。私はそのように考えている。
(革島秋遷)