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わたしたちの日常生活において「死者」はどれほど身近な存在なのだろうか。

メキシコには「死者の日」がある。日本でいうならばお盆にちかいもので、年に1度死者が我々のもとへと帰ってくる日である。しかし、それは日本のようにしめやかに執り行われる行事ではない。これはメキシコの先住民の民俗信仰とスペインのカトリック信仰の融合した文化なのだが、彼らはこの「死者の日」には色鮮やかな花で墓を飾り立て、墓地でわいわいと食事をとるのだ。我々の文化からは考えられないが、帰ってきた死者との語らいを楽しむ陽気さと、その裏に秘められた別れの寂しさにはなんともいえないものがある。

 決して死を肯定しているわけではないが、死という概念が身近にあることは今この時代に必要なのではないか。人は死んだらどこに行くのかだとか、死んだおじいちゃんが見ているだとか、心から思うのはなんだか禁忌なようで、けれど思わないことも禁忌なようで、私たちはそういった話題から無意識のうちに離れようとしてはいないか。死をただの物質の消滅と考えるもよし。けれど、そう考えることもまだまだ我々には怖い。ぐにゃぐにゃした信仰心を携えて、いざ自分の死に直面すれば泣き崩れるしかないなんて、長い人生の最後をそんな風には飾りたくない。

 

 命の終わりを認めよう。そして、その日には笑っていたい。

 この「デイリー孝太郎」にも命がある。私たちはそこに命を吹き込みたかった。彼の命はいつまでつづくのだろう、彼の人生をどういう風に飾ろうか。生と死は表裏一体だ、彼が死んでも墓場で一緒にお酒を飲もう。そして、次に来るべき生を心待ちにするのだ。

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