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 NHKで考古学者のドキュメンタリーをやっていて、見た。以下のような言葉に感慨を覚えた。
 遺跡は人類に遺された宝であるが、それを発掘すると二度と元の状態には復元できない。それは宝の破壊行為である。しかし、それでも、そこにある遺跡を掘らないのは人類に対して失礼なことのような気がする、というのである。
 「宝の持ち腐れ」という言葉があるが、宝がその価値を発揮するのが、それが失くなってしまうときに限るのであれば、やはり宝は消費されるしかないのだろうか。
インドの図書館学者ランガナータンが提唱した「図書館学の五原則」なるものの中に「本は利用するためのものである」というのがある。これは当たり前のことに思えるかも知れないが、実は図書館の機能には利用のほかに保存があって、そこを敢えて「利用が本義」と主張したのがランガナータンの五原則なのであって、
 図書の貸出は即消費ではないが、やはり多くの人に渡れば本だって痛むし、延滞や、ひどい場合には紛失する人だっている。それを見越して、貸出対象者を制限したり、館内閲覧のみにしたりして、「保存」の機能を強く打ち出すことも図書館は出来るわけだ。しかし、保存したとてそれは未来の利用者のためであり、未来の利用者が同じように保存の原則に従えば、結局は「宝の持ち腐れ」となってしまう。大切なことは、宝から最大限の価値を引き出せるような利用方法の模索なのだ。
 とはいえ、明日の自分は他人。富の再配分はいつだっていざこざにまみれている。将来の利用者と現在の自分のどちらが本当にその宝を必要としているのかを判断することは難しい。時間が流れる限り、人類はこのジレンマを永久に抱えるのだろう。
 ところで、大量消費社会なんてことが言われるが、そもそも「消費」という契機は、人類が何か「保存」という方法を編み出してからその対として生まれたものでは無いだろうか。ただ生きるために肉を狩り、食らう行為を消費とよぶには抵抗がある。保存か利用か、このジレンマは人類の歴史とともに古いものだと仮説してみたい。
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