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征夷大将軍坂上田村麻呂の墓は、山科区役所から新十条通りを西に進み、山科川を越えると左前方に見えてくる。墓が見えるというよりも、墓を取り囲む小さな森が見えるのである。
それを目印に、新十条通りを外れて一歩南に入ると、交通の騒音は一気に遠ざかり、落ち着いた気分になる。数分も歩かないうちに、「田村の森」にたどりついた。
小規模ながらもうっそうとしたその森は、公園として整備されていた。入り口の門柱には「坂ノ上田村麻呂公園」と刻まれている。
ゆっくりと中へ入ってゆくと、左側に真新しいジャングルジムがあり、親子連れが楽しんでいた。「田村麻呂とジャングルジム」というミスマッチにまず私は苦笑し、「いやしかし、田村麻呂に見守られて子どもたちも安心だろう」と即座に考えた自分の年寄りくささに再び苦笑した。
田村麻呂の墓は、檜の大木に囲まれて、公園の一番奥にひっそりとあった。墓の前はがらんとした空き地になっていて、小学校高学年くらいの男の子たちが野球をしていた。墓の周りには鎖が張られ、ある距離以上は近づけないようになっている。やはりそこには、子供たちの遊戯と隣り合わせにありながらも、それとは一線を画する凛とした空気があった。あの坂上田村麻呂が、ここに眠っている。
私は田村麻呂に会いにここ山科へ来たのではなかった。栗栖野という地名を求めて来たのだった。だからこそ、よりいっそう「出会い」という感じを強く持った。「こんにちは、田村麻呂さん、はじめまして」ではなく、「あれ?え、もしかして、田村麻呂さんですか?」というような。
墓の前に設置されたアルミ製の説明板には、次のような文言が記されている。
「弘仁二年五月二十三日死去、五十四才。この地で葬儀が営まれ、嵯峨天皇の勅によって甲冑・剣や弓矢を具した姿で棺に納められ、平安京にむかって立ったまま葬られた。」
死者の魂を慰める言葉として「安らかにお眠りください」というのがあるが、田村麻呂の場合は安らかでもなければ眠ってもいないということになる。今も厳めしい顔で仁王立ちし、京都を監視しているのだろう。武人としては本望かもしれないが、少しは休んでいただかないと、という気もする。しかし、我々の身近でも悲惨な事件が起こるようになった今日この頃の時勢。彼も気が気ではあるまい。
ふと気配を感じて振り返ると、夕日色をした蝶が目の前をゆっくりと横切っていった。
「田村麻呂の生まれ変わりかしら。」
思ったとたんに「田村麻呂と蝶」というミスマッチに気付き、私はやっぱり苦笑したのだった。