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教師の業界用語に「発問」というものがあります。質問は,「分からない」人が「分かる」人に対して問いただすことをさしますが,発問は教師の側が教える人々に対して行う,「分かる」側が「分からない」側を問いただすことです。まあ,皆さん覚えはあるかと思います。「これはどうなっているのかな?」ってやつです。
子どもがどうすれば興味を引かれ,授業に積極的に参加してくれるかが大きく変動するとも言われます。例えば,バスの運転手の仕事がどのようなものかを学習する時に,「バスの運転手の仕事はなんですか?」よりも「バスの運転手は何処に気をつけて運転していますか?」のほうが参加しやすく,さらに「バスの運転手はどこを確認しながら運転していますか?」と訊くと答えの数もぐっと多くなる,などという話を聞きました。
嫌みな見方をすれば「ヤラセ」ですね。誘導の問いかけとも言えます。バスの運転手は「バスを運転すること」が仕事というだけでは満足ではなく,必ず安全だとか,時間通りの運行だとか,そういったことも気をつけていて,場合によれば改善点すらも発見してしまうくらいまで子どもは自発的に考え付くことが求められているわけです。観客である子どもをその辺の感動的な答えに導くために役者は奮闘するわけです。ダイレクトで浅いものは大根役者となるわけです。教師とは,役者である。
私たちはそこまで感覚が暇ではありません。バスの運転手の仕事が何かよりも効率の良い仕事が何かのほうが興味があります。拡大すると,世界の貧困層の問題よりも自分の今日の空腹を満たす食べ物が問題だったりします。それ自体は全く自然なことです。言われただけでは動けないことも無理ないことです。それゆえ,本当に気づいて欲しいことには教師でなくとも発問しなければいけないわけです。役者になって,観客がウケて感動的な答えに近づいて欲しい時も出てくるわけです。そして,不断の発問が必要になります。自発でなければリアリティも乏しくなりますから。
あらゆる大問題は全て発問の形が求められている,というのは誇張でしょうか。教師の業界ゆえ,「教える」ことが発問の目的とみなされても不思議ではないですが,「自発的なところへ導く」ことを目的と捉えると,案外持っとくと便利な発想かもしれないですね。ただ,発問は自分がある程度その分野に長けていることが必要なので,その段階に達することと,達した後素人に分かるよう話す,など問題は多く難しいのですが。