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先日私は奈良に出向いた。目的は、まさに奈良観光のためである。駅を降りてまず飛び込んでくるのは、お決まりであるがまぶしい中学生の制服と至る所でのんびりとくつろいでいる鹿たちだ。そして周りには奈良時代を彷彿させる、異国情緒あふれる雄大な建造物たち。私の住まう京都も、修学旅行生と観光客の数ではあちらにもひけをとらないが、やはりこの光景は異様であろう。一言で印象を述べよと言われれば、緑の下地に白と茶色の絵の具の撒き散らしたような・・・で片付いてしまうのは、私の感性の拙さゆえであろうか。
そんな奈良の地で、私が心惹かれたのは仏像たちであった。高校の日本史でお目にかかった数々の仏像たちというのは、大きなものは縮小され小さなものは拡大され図説という名の平面にぎゅうぎゅうづめに押し込まれていた。図説の仏像たちは、隣に配置された他の仏像の図との対比、もしくは異なる特色を持った他の文化との対比の目で見られていた。これはグプタ朝の影響を受けているだとか、これは漆で塗り固めてあるだとか、これは乱れた国を治めるために作られただとか、私の知る仏像の(断片的にしか過ぎない)知識は歴史の一部でしかなかった。調べればすぐに、誰もがこれらと同じ知識を得ることができる、客観的な事実でしかなかった。
言いたいことは「やっぱり生は違うなぁ」ということだ。人間と同じくらいの大きさのものと向き合って、かの有名な東大寺の大仏さんを見上げて、小さな仏様を愛しむように眺めて・・・いままで全部同じように見えていた仏像たちそれぞれに、命が吹き込まれたかのようであった。私は仏像一体だけをじいと見つめる。あるものは超然としていて、あるものは憤って今にも動き出さんとしている、そしてまたあるものはおどけた表情とポーズで私を笑わせる。それが何の文化に属し、何で作られているかなんてどうでもよかった。その感覚は、知らない人と初めて会ってみてその人柄に直接触れることで、事前に知らされていたその人に関する風評なんてどうでもよくなってしまうのに似ている。まぁ、あまりそんな状況下に置かれたことはないが。
この興奮をどうにかして伝えようと思った。しかしその方法はどうにも見つからなかったので、とにかく断片知識の1つを取り出して、「右の菩薩が唐風で、左の菩薩が日本風やねん。」と一緒についてきてくれた人につぶやいてみた。しかし、その言葉はただむなしく宙に消えてゆくだけだった。このとき、きっと周りの仏様たちにも私は笑われていたのだろなぁ。結局こうやって帰ってきてからも文字に還元できないのは歯がゆい。それゆえに、何につけても文字だけの理解を止めて、是非みなさんにも実際に足を運んで欲しい。こんな押し付けがましいことを言うのははばかられるが、やはり私は強く勧める。なんだって「生は違う」のだから。