孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
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私の祖父は、若いころ猟を趣味にしており、祖父の家にはキジやヌートリアといった動物の剥製が置かれていた。ガラス玉の目は虚空を見つめ、覗き込む私を映しはしなかった。元動物のその子の中にはもう何も入ってやしない。骨も内臓もみんな取り出されてしまって、表面だけがその子の持ち物だ。観賞用の剥製なんてまさに人間のエゴを具現化したものと言えよう、中には綿が詰まっていて、妙にかっこつけたポーズをとるその置物に本当の動物らしさは見出せないはずだ。
しかし、幼いころの私はそのひんやりとした動かない動物に「かわいいね。」と話しかけ、体を撫でていたものだ。そして今も、動物の剥製を見ると「あぁ、動物だ。」と思う。彼らは今にも動き出しそうであるし、生前の思い出やらを胸の内に秘めていそうなのだ。胸の内には綿しか入っていないというのに。
彼らに「いきもの」性を感じてしまうのは、人間がものの表面、つまり目に見えるところしか見ていないからだろうか。剥製の作り方をわかっていても、見た目のインパクトの強烈さに負けてしまうからだろうか。そんな情けないやつに、勝手に命を奪われて、表皮だけをしげしげと眺められる。彼らにとってこれほど屈辱的なことはないだろう。
自然界から遠ざかってしまった私たちに何かを思い出させてくれるもの、そして偉大なる自然の中で堂々と生き抜いたもの、そんな風に彼らを敬う気持ちがまだ私たちのどこかに残っていることに、「いきもの」性の根拠があるのではないだろうか。そうならば彼らもこのエゴを少しは許してくれるかもしれない。そんなエゴイスティックなことを考えている。
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