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『孝太郎』から遠く離れて
〈壱〉『孝太郎』の誕生
2005年、初夏。文芸雑誌「孝太郎」の第一回編集会議が開かれたあの日のことを、私は昨日のことのように思い出す。放課後の教室、黙々と自習する生徒もいる中、紙面を表す四角形をいくつも黒板に書きながら、編集計画を語る編集長。それに対して各々の思うところを意見する3人の編集委員。その中の1人が私であった。
「雑誌をつくってみないか。」後に編集長となる彼に、私がそう提案したのは、会議が開かれる二週間ほど前のことだった。高校に入学して以来、それなりによく勉強して多様な知識を吸収し、めでたく高校2年生のスタートを切ったはずであった。しかし、何か物足りない、すべきなのにしていない決定的な何かがある。そういう思いが、おそらくお互いの中にあった。
我々はおそらく、自分は意外とすごい可能性を秘めているんじゃないかと思っていた。我々はおそらく、自分の可能性にまわりが気づこうとしないことにいら立ちを感じていた。我々はおそらく、自分の可能性が外に向けて発揮されないままに消えていくのではないか、というかすかな焦りを抱いていた。我々は〈表現〉という営みに餓えていたのだ。
雑誌創刊という案は、私のふとした思いつきであった。具体的なことを細かく考えていたわけでもなく、そもそも実際計画が動き出すとは夢にも思っていなかった。ところが、後に編集長となる彼の反応は予想をはるかに超えていた。彼は目を輝かせ、善は急げとばかりに次の日から具体的な案を練り始めた。
いかなるスタンスを取るのか、どのようなコーナーを作るのか、どのような形で世に出すのか、……。私なりの急ごしらえの案もあったが、彼の考えの方がいずれにおいても何倍も優れていた。文芸を扱うこと、読者からの投稿も掲載すること、冊子を20部ほど作って教室で配ること、等々。疑うべくもなく、編集長は彼であった。
近しい仲間2人にも声をかけ、私とともに編集委員として創刊に携わってもらうことになった。〈表現の場〉の創設に希望を抱いたのであろう、彼らも非常に意欲的であった。彼らは今も『孝太郎』を支え続けている。
〈孝太郎〉という誌名は不思議な形で決まった。ある日私のもとに彼からメールが届き、「この中から雑誌の名前にふさわしいと思うものを選んでください」という文面に、ネイム・リストが添えられていた。そのほとんどが、〈そよかぜ〉とか〈青空〉とか、透明でありきたりな名前であったが、その中に唯一異色を放つ名前があった。誌名はインパクトがあったほうが良いという私なりの考えと、彼に何かしらの意図があるのではないかという勝手な推測から、私は「〈孝太郎〉が良いと思う」と返事をした。
かくして文芸雑誌『孝太郎』は産声を上げた。編集長がまぎれもない生みの親、私は能無き産婆であった。〈孝太郎〉とは何(誰)なのか、それは未だ解かれぬ謎である。私も一時期はじれったい思いを持っていた。しかし今では、それが解かれる必要のない謎であるということを知っている。我々が愛情をかけながら彼を育てれば、いつか〈孝太郎〉自身の口から自らの正体が語られる、そんな日が来るだろうと信じるからである。