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〈弐〉『孝太郎』の性格
文芸雑誌『孝太郎』の創刊号(2005年11月11日発刊)は、B4の紙1枚を2つ折りにしたシンプルな体裁であった。表紙には編集委員の手になる流麗な筆文字が躍り、自らの名を誇らかに告げていた。
その巻頭に掲げられた「創刊にあたって」をここで再読してみよう。
今、あなたが目にしている、この誌面、この紙こそが「孝太郎」というもので、既にお気付きの通り、これは雑誌である。すなわち、文章が載っている。つまりこれをつくった人物がいる。複数の人がこれを目的として書いた文章なり何なりが、このようにまとめられ、孝太郎という名を負っている。それがこれである。
えらくぶっきらぼうな書き出しに見えるが、実は、文芸誌『孝太郎』とは何であるかということは、この文章の中で語り尽くされている。
とりわけ重要な点の第一は、「複数の人がこれを目的として書いた文章」という部分である。『孝太郎』は、「『孝太郎』のために書かれた文章」を期待していたのだ。別の言い方をするなら、『孝太郎』は、編集委員や読者がもつ潜在的な創作意欲をかき立たせる、という役割を担おうとしていたのである。すなわち、『孝太郎』は、表現の原因であると同時に表現の目的としてあった。
さらに重要なもう一点は、「孝太郎という名を負っている」という部分である。〈孝太郎〉という箇所を、例えば〈そよかぜ〉に置き換えてみれば、この部分の重要性が明確になる。〈そよかぜ〉のようにありきたりな誌名ならば字面以上の意味をもたないはずのこの一文が、〈孝太郎〉という人名を含むことで特殊なメッセージ性を帯びている。それは嬰児に対する名付け、それも襲名じみた名付けを連想させる。徳川初代将軍家康の幼名は「竹千代」であったが、2代秀忠、3代家光の幼名もまた「竹千代」であった。この場合、家康は単に「竹千代」と〈名付けられた〉だけだが、あとの2人は「竹千代」という〈名を負わされた〉と言えるだろう。偉大であらせられた家康公の御幼名に傷をつけぬよう、しっかりお育て申し上げなければならない。〈名を負う〉とはそういうことであろう。〈孝太郎〉の名に恥じぬような立派な人格に育て上げる。それが、我々が『孝太郎』に対して当初から求められていたことなのである。
ところが、幸か不幸か、〈孝太郎〉が目指すべき人格がいったいどのようなものなのかは、一切示されていない。うまくいけば読者と編集委員の間に自然発生的な合意がなされ、彼はすくすく育つであろう。しかし、関係者の間に少しでも齟齬が生じれば、彼の人格はたちまち分裂の危機に瀕する。そして、可能性的には後者の方がはるかに高いことは容易に予測できるのである。それでもなお、不断の努力によって障害を乗り越え、質の高い文芸の世界を創り上げるように。それが『孝太郎』が我々に対して、当初から要請していたことなのである。
この暗示に富んだ書き出しの後、―「少し“まともらしい”『創刊にあたって』」にしてみようと思う。―という表明が続き、今までの文章がまともではなかったかのような印象を読者に与える。しかし、すでに述べたように、『孝太郎』の真髄は最初の5文の中に書き尽くされており、この後の文章はその補足と一般的なメッセージに過ぎない。ただし、かなり重要な項目を含んでいるので、読み直してみることにする。
さて、これは雑誌ということですから、文章で何かが表現されていたりする訳です。当然、それを読む人がいる事を望みます(できればたくさん)。読んだ人は書かれているものに対して何か思ったり考えたりする事でしょう。別に、それを書けという訳ではありません。誰かが何かを書いて、他の誰かがそれを読んで、その誰かが“何か”をするのです。それは文章を書いてよこすのでも構わないし、一人で何か考えるのもよい。ただ、そうして何かを伝える場というものを、この紙切れによってつくることができたら、それはうれしく楽しいものではないでしょうか。
要するに、双方向の雑誌にしたいという意欲表明である。そしてこの個所は、文章(ことば)が人を動かすという基本原理を丁寧にとらえている。誰かがある記事を読んで、「文章を書いてよこす」場合は手が動き、「一人で何か考える」場合は心(頭)が動くことになる。人に何かをさせるエネルギーをことばは持っているはずであり、『孝太郎』は、そうしたエネルギーを持つ文章の媒体になりたいと欲している。
この雑誌に何かを載せるのには、特に資格は必要ないし、ジャンルといったものも問いません。よくできたものでなくとも構いません。自分の世界をそのまま表したらよい訳です。(ただそれは難しい事ではないかとは思いますが)。又、「個性を発揮しなければならない」という事に縛られてもなりません。
ここで『孝太郎』は、門をめいっぱい広げることを宣言した。かのように見えるが、実は高質な投稿作品に期待しており、それなりの覚悟で書いてくれというメッセージとも読み取れる。それと同時に、『孝太郎』の強い覚悟も感じられる。それぞれの投稿者が「自分の世界」をぶつけてきたとき、それをひるまず受けとめる覚悟である。たとえそれが『孝太郎』の人格的危機を引き起こすことになろうとも。
ただひとつ、これが「伝える場」である限り、謙虚な姿勢というものはある程度必要です。つまり他とのつながりを意識する。一方向は避けたいところです。この事で、私達にとって何か良い事がもたらされる事が期待できると思います。
そしてさらにハードルが上げられる。自分の世界を展開し、自分の意見を主張しながら「謙虚な姿勢」を保つというのは何とも難しいことである。しかし、およそ言葉を紡ぐ者は、確かにその努力をせねばならない。情報伝達をめぐる様々な軋轢は、すべてと言ってよいほど謙虚さの欠如から生じるものだからである。
書くということ、読むということ、ことばで伝えるということに対して、『孝太郎』は非常に高い意識を持ち、バランスのとれた理想を掲げている。そしてそれらの信念が、肩の力の抜けた平易な言葉で綴られており、「高い理想は高い敷居にもなる」というありがちな弊害も見事にクリアしている。
もし、この雑誌によって、誰かの中で新しい何かがうまれたり、誰かの可能性というものが広がったり、少なくとも、楽しいとか面白いとか思う人がいてくれたなら、この雑誌の目的は達成されていると言えるでしょう。
『孝太郎』の最終目的を述べたこの部分は、もはや達観的とさえ言えるだろう。結局は楽しければよい、面白ければよいのである。そしてもちろん、ここで使われる「楽しい」「面白い」という言葉は、これまでの記述によって既に浄化され、日常的な用法とは乖離している。読者が『孝太郎』とともに享受すべき〈楽しみ〉の境地を提示したうえで、「創刊にあたって」は以下のようには閉じられている。
孝太郎を―こいつはある意味多重人格かもしれませんが―よろしくお願いします。
全体を軽く読み流してしまったならば、この一文は大したインパクトを持たない。しかし、文章冒頭を深く読むことに成功すれば、この箇所が単なる擬人法ではないことが重みをもって感じられるであろう。〈孝太郎〉は「こいつ」と呼ばれる他になく、確かに「多重人格」なのである。
しかしいったいどれだけの人間が、〈孝太郎〉のこの摩訶不思議な性格に思いを至らせたであろうか。「作品放出の場」として軽くとらえてはいなかったか。文芸誌『孝太郎』をめぐってなんらかの不都合な問題が生じるとすれば、それはおそらく、〈孝太郎〉の性格を無視した言動に起因するものである。〈孝太郎〉の生を狂わせる方向性に加担しなかったかどうか、我々は自省してみなければならない。私自身も、反省の念を深く抱いている。
(革島秋遷)