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「人に優しく」というどこかで聞いたことのあるような題を付けた作文を、どうやら私は小学校の卒業文集に載せていたようだ。何年ぶりかに開いた文集には確かに私の(何年も前の)筆跡で「人に優しくしよう」といった内容の事が書かれていた。あらためて見ると、まるできれいごとを並べたみたいでそれを書いた実感さえない。
文集を開いた時は、私はまさにちょうど「優しさ」に対してかなりの疑念を募らせていた時だった。「優しいね。」と言われて、とても恥ずかしい思いをしたのだ。もちろんその言葉を発した相手に悪意はなかったはずだ。しかし「どうも、わざわざ高いところから憐れみの情をありがとう。私たち同じ人間なのにあなたはずいぶん余裕のある方のようでいらっしゃるのね。」と私には響いたのだった。その時は精神的にも不健全でずいぶんひねくれた状態だったので、今から思えばこうやってへそまがりに捉えたことの方がよっぽど恥ずかしいことなのだけれど。
兎にも角にもそれ以来、私の中の清らかな優しさの定義が崩れ去った。優しさは優越感無しには生じない。相手に対する優越感から生れる心の余裕によって「かわいそうだ」という感情が生れてそこに情をかけてやる。優しさは主体にとっては高慢で、客体にとっては卑屈なものでしかない醜い感情なのだと思い込むようになった。
たとえば、募金は自身が優位にあって生命の危険がない状態だからできることだ。また、いじめを助けるにしても次に自分が被害にあわないような身分でないとできない。井戸に落ちんとしている子供をとっさに助けようとする孟子の性善説にある「惻隠」の気持にしても優しさ・憐れみの生じる段階では助ける側の身の安全があってのことだ。時折起こる救助者の事故は、優越の計り間違いによって生れた偶然だとさえ感じていた。同程度の人間の憐れみは優しさではなく傷の舐めあいにしか見えなかった。
こんなはずじゃなかったのに。文集を繰り返し読んで、そこに書かれたエピソードを何度も頭の中で蘇らせた。実感が湧くまで、小学生の頃の感情を掘り起こした。そしてぼんやりと思い出したもの、これは何年も経ったのちの理想による脚色かもしれないけれど、「優しいね。」と言われた時のなんだかこそばゆいような、体の底からじんわりと染み出すような喜びの感覚だった。優しさは与える者も受け取る者も心温まる感情であることに間違いはない。そうでなければただの嫌味だ。素直な「ありがとう。優しいね。」という言葉と、「他人に優しくありたい、力になりたい。」と純粋に思う気持ちをすっかり忘れていた。
きっと「優しいね。」と言われて辛くなった私は、本当に優越感を得ていて相手を憐れんでいたのだろう。優しさに対する見返りを無意識のうちに求めるようになっていたのだろう。さらに、実際に相手にもみじめな思いをさせていたのかもしれない。そうだとしたら、本当に申し訳なかった。そして、優しさの概念まで変えようと試みていた。
こうやって文字にするとすごく嘘くさくて虚しく響くけれど、そしてあの作文以来はじめてだけど、やっぱり「優しさ」を持てる人間になりたい。今度は利己的でない優しさを。