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世の中にはいろんなことばがある。
でも、自分に理解できることばはその中のごく一部だ。


まず、扱える言語がほぼ日本語だけ。
英語もちょっとはわかる。
でも微妙な言い回しとか、言葉の端々から何かを読みとったり、といったことはできない。


日本語でもわからないことはたくさんある。

気象庁の発表するデータ、
東電や政府機関の発表する原発、放射線についての情報。

日銀の予測や評価、
株価や為替がいくらか。

こういうのは、科学技術のことば、経済のことばを知らないと、
いまどんな状況なのか、今後どうなるか、全然わからない。

なんとなくで判断し憶測するのは、
英語ができないのに、英文の中から自分の知ってるわずかな単語を抜き出して適当に意味を決めつけるようなものだ。


それから、普通の日常にある日本語でも、たとえば被災者の語ることば、あるいは、原発の近くに住む人のことばも、
その体験をしている人しか、到底わからないと思う。

少しは共感したり、想像したりできるけど、
ことばのずっと奥にある気持ちは、なかなか表に出てこないはずだ。

ちょっと平和な例では、音楽もそうだ。
同じ楽譜を見ても、人によって読み取れることが全然違う。
楽譜の読み方を知っていても、
いまそこで演奏されている曲の名前を知っていても、
見えること、きこえることは、経験を積むにしたがって、
格段に豊かになってゆく。



ことばを知るというのは、その世界がどういう営みによって成り立っているのかを知るということとつながっている。



でも、世の中にはいろんなことばがありすぎて、
すべての世界を深く深く知ることは難しい。

いろんなことばがあるんだということ、
わからないことを受け入れること、
わからないことばにも、読める人にとってはものすごく価値があるのだということを認めること、

こういったことが大切だ。


そして、英語を日本語に訳して伝えてくれる通訳とか翻訳家とかみたいな仕事があるように、
たとえば科学のことばを、普通の人たちに翻訳してくれる、通訳も、絶対必要だと思う。
新聞やテレビの役割は、ただ発表されたことを流すんじゃなくて、
受け手に合わせて、正しく翻訳することなんじゃないかな。(「正しい」という言葉はなるべく使いたくないのだけど)
もちろん、わかる人、自分で判断できる人向けのことばで発信することも必要だと思う。


受け手も、なるべくたくさんのことばを身につける努力をしなくてはならない。

そうでないと、正しく翻訳してくれているか、チェックできないし、他人のことを理解できずに傷つけてしまうかもしれない。



いろんなことばを身につけたい、ひとつのことばを磨きたい、だから、生涯勉強し続けていこう。

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尖閣諸島のDVD,流出事件について。

今回の事件で最も重要なのは,「知る権利」かと思います。

youtubeに掲載された動画は瞬く間に広がり,コピーが次々投稿されています。
その中に,「知る権利」とコメントされた動画がありました。

尖閣諸島問題自体は報道されていながら,核心の動画は隠されたままでした。
それに対して,(おそらく法に背いて)風穴が開けられ,
そこからもう発信者特定不能の形で広がったのが今回の事態。

情報の拡散が,ネットによって大規模化しました。
当たり前の評価ですが。
今回流出したのが動画だったのがこれに大きく関わっています。
動画のコピー技術が精密かつ高速化したため,数々の動画サイトに転載され,
手軽に多くの人が見るようになりました。
そのことがさらに報道を呼び,人々に思考を迫ります。

機密管理の問題や複製,匿名性の問題はそれぞれ別にあるとは思いますが,
市民の共通の関心がネットで展開されることに,議論を導くきっかけがあることが感じられます。

これほど広がった動画が示すものは,純粋に「映っているもの」だけです。
編集も,国会で放映されたものよりもずっと少ないので。

本来「知る権利」とは,単に野次馬的に見て騒ぐことの権利ではなく,
「映っているもの」から考察を行うことを前提に,それを知ることの権利でしょう。
国務大臣の資産公開が,単に生活を覗くためではなく透明性の確保を理由に行われるように。

今回の事件が人々の知る権利を回復したものとなるのか,
はたまた国家機密を漏えいすることを楽しんだサイバーテロのようなものになるのか,
それは視聴した多くの一般市民がどういう行動を次に行うかにかかっています。

そういう意味で,動画を政権批判や特定の集団を攻撃するような「主張拡散のため」として流布する行為は,失敗するでしょう。
特定の主張を伝えるというレベルではなく公に広がっていて,
もう撮影者や投稿者の管理できる範囲を超えているでしょうから。
そういう主張も相対化され,再びメディアも報じる中で人々に精緻に考えられる契機なのです。

「国家の情報管理体制の危機」というのがもっぱら話題ですが,
これは国家側の視点です。むしろその情報管理の範囲までも俎上に上げ,
その根拠となる「知る権利」がどう実践されるか,がこの事件の持つ意味だと考えています。

客観的であること。

あるいは「メタ認知」と言った方が良いかもしれない。

自分から抜け出して、世界を見る。

 

最近、それについてよく考えるようになった。思いついたのは多分、高校生に数学を教えていたときのことだ。

僕は数学を教えるとき、数学の内容自体の解説や、さまざまな解法について、いろいろ講義をするとともに、問題を解くときの自分の姿勢みたいなものについて少し話していた。

というのも、教えていたその子が、それなりに数学の内容を理解はしているようであるのに、なかなか問題を解いて得点をするということができていなかったからだ。

どんな話かというと、「問題をよく読んで分析する」「何を求められていて、何が与えられていて、それに関して自分は何を知っていて何がわからないのかを考える」「間違ったら原因を探す。そのとき、自分自身がつくった前提にも疑いを向ける」などなど、こうやって書くと当たり前のようで恥ずかしいが、案外できないものであるらしい。冷静に考えれば、高校の問題くらい、絶対解けるはずなのだと信じている。トレーニングと言うべき勉強や、決まったフォームを身につけるための時間は多く必要だろうが、ある程度の知識、方法を身に付けた者にとっては、そこから先は勉強というよりメンタルトレーニング、修行のようなものが必要になってくる気がするのだ。つまり問題を解けなかったり、自分のミスに気づけないのは、その問題をやっているときに「一歩引いたところに自分を置く」ことができないからではないかと思うのだ。(勿論それだけとは思っていない…念のため)

 そうすると、ああ、数学もこういう力を身につけるためにやらされてるんだな、と思うことができる。抽象的な考えをできるようにとか、他の何かの役に立つとか、そういうのもあるけど、もしかしたら「論理的思考」ってのはこういうやつのことを言ってたのかもしれない、とも思われる。

 

 いま私が言いたいのは自分自身で、自分自身をどうとらえるか、という問題についてだ。

 歴史の授業だって、高校生までは、「いま起こっていることを理解するために、それまでの歴史を知っていることが大事なのだ」といった意義の説明を信じていた。しかし最近は、自分なりの歴史を学ぶ理由を見つけた。過去から未来へと続く時間軸を感じ、その中の一点に今、自分がいるということ、「その線上の点としての自分」という見方をどうにかして実感するために、そして、得た知識とその感覚をもとに、よりよい未来をつくるために、歴史を学ぶのだ…と思う。

これも上で述べた数学の件と、言いたいことは同じだ。自分で自分を見るときの、身につけておくべき見方についてなのだ。「周りを見る」というのとは少し違う。見えているものが、自分自身のみか、自分以外の世界のみではだめなのだ。自分を含めた、「世界の中の自分」として考えるのだ。

 これは、もしかしたら、何かの本で読んだ(「~通信」という文章だったと思う。高校生のときに国語の教科書にも載っていた)「自分を相対化する」というやつかもしれない、と気がついた。時間的に、空間的に、自己を相対化する。そうだ、当時はよくわからなかったが、あのときの文章はきっとこういうことだったんだ、と嬉しくなる。ホントのところどうかはわからないし、またそのうち読み返してみよう。

 自分の生きるこの世界は自分の誕生とともに始まり、死とともに終わるのではないかと思うことがある。つまりこの世界は夢のようなもので、何かから生まれた「私」という意識のようなものが創り出したものに過ぎない、ということである。突拍子のないような考えだが、完全に否定することは誰にもできない。もっとも世界に存在するものの多様さを考えれば、それらを全て自分が想像して創りあげたものなのだなどとは到底信じられないのであるが。
 この世界における自分とは一体何なんだろうかということは度々頭によぎる疑問である。自分はほんの小さな存在に過ぎず、一方世界は無限大に広い。しかしながら現実的には一つの心に一つの体しか持ち得ない人間に知れる世界はごくごく狭く、実感されるものとなるとさらに狭い。世界の広さを考えると自分の行いなど痛くも痒くもないようなものであるが、自分に見える狭い世界では非常に大きな影響を持つことが多い。大きな恥をさらしてしまったときに、こんな一時の恥など世界から見ればちっぽけなものだ、と考えて落ち込まないようにする、というポジティブな思考法があるが、普段は自分に見える狭い世界が世界の全てとほぼ等しいので、自分の失敗は小さなものには思えないだろうし、実際に小さくない。そのため実践するのは難しいだろうと思う。
 普段はどうしようもなく狭い世界の方に目が行きがちである。そんな中で最初に述べたような世界=夢という考えも生じたのであろうと思う。仮にその考えが正しいとするとこの現実にいる自分も仮の姿ということになる。夢を見ている自分も結局ちっぽけなものなのか、それとも神のような超絶した存在なのか。妄想ばかりがどんどん膨らむのである。

 

 

  春に

 

   一つの花が綻んだ

   高まる鼓動

   切実な熱情

   寒風吹き荒ぶ精神の冬にあって

   花は確かに柔らかな光を放った

 

   一つの花が薫った

   蒼天の共鳴

   これこそが世界なのだ

   流れ出した空気に乗って

   新しい現実がすぐ傍で照れていた

 

   

   一つの花が歌った

   離れゆく花々の跡を

   言葉で埋めるように

   残された花へそっと

   氷雨がやがて降った

 

   一つの花が散った

   崩れ落ちるように

   花弁が落ちて地に波が立つ

   梢から遠く離れたそれは

   漂いながら全存在の前で眼を閉じた

 

   花の命を祝福する

   言葉の残響

   花は本当だった

   永劫の中に身体を溶かし

   やがて来る時の中へ流れ込みながら

アンサイクロペディアという、ウィキペディアのパロディサイトがあり、百科事典の形を借りて、全くのでたらめばかり書いてあるとんでもないサイトなのだが、その中にも時に面白い発想が転がっていたりする。
今回私が引用したいのは「人間が勝手に作った円周率」の項。(アンサイクロペディアの世界では「3」が本当の円周率ということになっているので、こちらの世界の円周率をいうために敢えて「人間が勝手に作った」としている。)

「この数列には全ての(暗号化された)データが含まれる。当然、著作権で保護された音楽のデジタル情報も含まれている。人間が勝手に作った円周率さえiPodに入れておけば知らない曲も合法的に入手できる。(再生するためにはそのデータが小数点以下第何位から第何位までに当たるのかを覚えておけばよい。)」

勿論、そんなデータがあったとして、iPodに入ろうはずもないし、本家ウィキペディアの「円周率」の項によれば「現在 π は 1兆桁を超える桁数まで計算され 0,…,9 がランダムに現れているようには見えるが、この状態がこの先の桁でも続くかどうかは分からない」
というわけで、円周率が無限に周期性なくランダムに続くかどうかは分からない。しかし、ランダムでないとも証明はできていないわけで、円周率にこの世の全ての情報が詰まっているというのは夢のある話ではあると思う。

同様にスケールの大きい話で、ニーチェの「永劫回帰」という思想を紹介したい。
私とてあまり詳しくはないが、素人なりにまとめてみると、「この世にある物質が有限で時間が無限であるならば、今現在と全く同じ状況が無限の時間の中のどこかに再び現れるはずだ。」という考え方である。
思想史的な意義は置いておいて、この発想そのものに注目すると、円周率がランダムであるのかという議論とかなり近しいものを感じないだろうか。
円周率に表れる素材は0~9という有限の数字である、これが本当に周期性なく永遠に現れてくれるのか。それは、この世界が、この人生が、本当に一回限りのかけがえのないものとして経験されているのか、と問うことに非常に似ている。ニーチェは、円周率にあらゆる音楽ファイルを詰め込むことは出来ない、としたことになる。それでは「あらゆる音楽ファイル」というものは無限にあるのだろうか?

…思考の中で有限と無限は激しくせめぎ合い、我々の生だけが哀しいほどに有限である。(といったらニーチェに否定されてしまうのでしょうけど)

私は高校時代、英語がなかなか好きになれないで苦労したのを覚えている。なぜ、日本語という使い慣れたツールがあるのに、他の言語を学ばなければいけないのか。学んで使うことが出来ても私のレベルではせいぜいぎこちない意思疎通が可能な程度である。それなのに、こんなにも貴重な時間を割いてこの実用化されたよく分からない言語を学ばねばならないのかと、実に不満でいっぱいだった。

 

言語についての専門的な知識なんてものは高校の頃と変わらずにゼロに近いが、しかし最近ようやくそれぞれの言語が持つ雰囲気のようなものを感じられるようになってきた。発音やリズム、文字の形、語彙・・・ただの記号に過ぎなかった言語にもこんなにバラエティーに富んだ顔があるのだ。無数の言語が存在することに対して不便さしか感じていなかったが、世界の言語をばらばらにした神の意図はあながち間違いではなかったようだ。

言語にはそれを話す人々の歴史が詰まっている。それが望まれたものでもそうでなくとも、言語には悠久の歴史が刻印されている。書物にも遺跡にも人の心にも残っていない歴史でさえ、言語は知っている。しかも人間がこの地上に姿を現したその日から、1日たりとも休息することなく言語は生き続けているのだ。一文字一文字、一音一音では何の意味も持たないのに、それらの組み合わせで人間の思いつく限りのことを表現できる。言語は背負った過去と未来へ向かう無限性の両方を兼ね備えている。

 

言語それぞれの顔というのは特定の人間集団(民族と定義されるもの)によるのだけではない。例えば同じ日本語でも地域でニュアンスは全く異なるし、それどころか一人一人によって紡ぎだされる言葉もそれぞれの人間の色に染まっている。きっと一個人というミクロな視点に立っても、言語は歴史的なものなのだろう。その人間が生まれてはじめて耳にした言葉、出会った人生の先輩たち、住んだ地域、そしてその環境を形成したいつかの出来事・・・彼の操る言葉にも壮大な歴史が積み重ねられ、そして共に成長してきた彼の人格を通して言の葉は紡ぎだされる。それは世界の一部分だけれども世界の何もかもと関わっている、歴史的産所産だといえよう。

 

拙いながらもこの私の口から出てくるものにも、それなりの壮大な歴史が詰まっているようだ。いつまで私の体がこの地上に存在するかは分からないけれど、その最後の日まで、私の言語と一緒に成長していきたい。そして私と共に生きた人間やわたしの言葉を見聞きした誰かの言語形成に少しでも寄与して欲しいと思うのだ。この身が朽ち果てようとも、私が一生涯共に生きた私の言語は生き続ける。なんとも心強い理論ではありませんか?

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