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孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
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合奏とかいって他人と音を合わせるときに気を遣うことの一つは、どうタイミングをあわせるかということだ。
だいたいは指揮者が前で棒をふっていて両者がそれにあわせる、ということになっているが、そういうさくらんぼ状の関係だけで表せるものでなくて、演奏者同士で息をあわせるというのも不可欠であることは言うまでもない。
しかし相手にあわせようあわせようとしてもズルズル遅れていったりして結局うまくいかない。で、やっぱり指揮者はまとめ役としてもいた方が良いということになる。
タイミング以外に何を合わせるのかと言われたらそれはまぁ音量とかいろいろあるのだけれど、タイミングがずれるのがきいていて最も失敗とわかりやすい(ずれることが一概に失敗であるとは言えないが)し説明もしやすい。
自分の音と他人の音が同時になるのだとすれば、自分が音を出すその瞬間まで相手も音をだしていないので、ちゃんと訓練していないと、「あれ、まだ音ださないのか!?」みたいなのが脳裏を過ってしまって結果遅れてしまったりする。相手に弾いてからよし聞こえたぜといって安心して自分も弾くなんてことはあらざるべきことだ。
ここでメンバー同士あるいは指揮者との信頼関係がとても大事なのですよなどと結論付けてしまうとなんだか安っぽいが、ひとつの音楽をつくるということは、先週書いたようにひとりひとり歌いながらしかも合わせなきゃならんというところが非常に難しいし(歌自体タイミングさえあってりゃ好き勝手に歌ってりゃいいってもんでもないしね)、なんとも奇跡的なもののように感じることがあるのだ、ということを伝えたい思いでいる。消化不良な文章ですがね。
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「秋深み」とされる頃に入ってきたでしょうか。下宿生活をしている私は季節を感じるようなテレビを見ることもなく、舌で季節を味わうこともなく、身の回りも初めて来た場所ゆえ何処が変わるのか分からない、ときて、ただ気温の低下のみで秋を感じている有様です。その中で、他のデイリー孝太郎筆者さんたちが秋を題材に風情ある文章を書いてらっしゃるのを見ると、嫉妬の心が募るのと並行して、秋になった時の世間一般の人々の(一種月並みな)気持ちには不思議さを感じます。

 

何故か、秋には「~の」がつきます。食欲、芸術、読書、スポーツ…。秋以外何をするんやとも言いたくなりますが、秋というと何か事を行う季節のようです。生理的に夏ばてが収まるゆえ食欲は納得できます。しかしその他は何故でしょうか。涼しくなるから?では春は。単なる気候の変化のみではなさそうです。

 

もう一つ秋の一般イメージとして、「寂」があります。蝉の声が静まり、葉は枯れる。奥山で鹿が啼く夕暮れが寂しいのは古今東西いづこも同じなのです。これは視覚、聴覚を初めとして非常に感覚的なもの、しんしんと雪の降る冬への移行期として、多くのものが静まっていく季節からの印象でしょう。こちらは春との違いは明白です。書き忘れましたが、収穫と言う行事も重要な印象を示していることでしょう。

 

秋に付き物の感覚を多少挙げてみましたが、こう見ると秋にセンチメンタルさを特別感じるのは、人間の晩年の姿に近いからかな、と思いました。晩年の姿がどんなものか、体験したことはありませんが。成熟し、充実し、それでいて死へと着々と進んでいく。それを投影した見方をかなり率直なレベルで秋に行っているのではないでしょうか。

 近頃、朝起きると少し寒い。ふひゅうー、寒いね、なんつって。でも今日の予定はお昼からしか無いからね。楽勝楽勝、なんつって家で暫くぬくぬく過ごしてお昼。お天道様がじわりと下界を照らしていい感じ。少し暑いぐらいだわ、なんつってご機嫌な格好をして出て行くと、夜になって後悔をする。ふひゅうー、が一段階上がって、ぷぴゅうー、或いは酷いときになると、ぶびゅうー、おぉ寒いよぅ、となって昼間のぬくぬくの自分が恨めしい。理屈で考えれば、朝と同じぐらいまでには冷えるだろうぐらい想像できるはずなのに、昼間の私にはそれが出来ない。なぜならあったかいときにはあったかいときの考え方しかできないから。いえぃ。何とも情けない。
 ほんの数時間前(後)の自分は他人である。何かのメモを取るにしてもどうせ自分用だからと油断して、簡略化、或いは逆にユーモアを発揮して婉曲にかいてみたりすると、もう何が何だか分からない。書いてるときには自分は分かっているものだから、後々見るときも分かっているものと思いこんでしまう。携帯のメモ帳に算用数字一文字で「4」とだけ残っていたときには吃驚したものだ。記憶力云々の問題というよりは、自分という人格が一所に留まっていない感覚。或いはそれが人間の自然な姿なのかも知れないが、社会というものが人格を最小単位として成り立っている以上、私という人格はある程度の一貫性を求められているわけであって、うぬぬぬ。
 自分が自分で居続けるためにはどうしたらいいのか。メモの例であれば、未来の自分を他人だと思って、他人に説明するようなつもりでメモを取らなければならない。服装の例であれば、他人の服を選んでやるつもりで、夜になったら寒かろう、と気づかってやらねばならない。恐らく他人だけでなく自分に対しても礼儀正しく在ることの出来る人間が"大人"なのだろうと思う。自業自得などと言って納得していてはいつの日か他人にも迷惑を掛けてしまうかも知れないのであって、しっかりしなければなぁと思う今日この頃なのです。
 私たちは、何によって季節の移り変わりを意識するのだろう。気候の変化、空の変化、日の長さの変化…様々なことが挙げられると思うが、小、中学校時代の私にとっては、登下校する道の周りにある自然の変化が、季節の移り変わりを意識するのに大きな役割を占めていたように思う。
 紅葉した木々を眺めながら、その木々の周りに落ちた葉の中でも乾燥していそうなものを選んでは、踏んでみて、その音を楽しむ。ススキに紛れて、大量に生えている茶色くなったくっつきむし(正式には「ヌスビトハギ」という植物の一種であるようだ。)が大量に服や鞄にひっつくのに悩まされては、夕方になると聞こえ始めるスズムシの鳴き声に耳をすます。秋の登下校は、毎日がその繰り返しであり、当たり前のことであった。
 しかし、最近はどうやらそれも当たり前ではないように思える。暖かい気候が続くためか、10月になっても紅葉を始めない木々も多い。スズムシの鳴き声も少なくなってきた気がする。少しずつだが環境に変化が出始め、秋を感じられるものも減ってきている気がして、どこか寂しい。
 このような変化はやはり様々な環境問題の影響なのであろうか。環境問題について考えるとき、必ず出てくるのは「私たちにできることとは何か」という問題である。大抵、一個人にできることなど限られていて、実行したところで結果に結び付くのか疑いたくなるものも多い。実際、環境問題が解決に向かっていくには、企業や国などの大きな組織の協力が不可欠であろう。しかし、大きな組織も人間一人一人の集まりである。すぐに結果に結び付かなくとも、一人一人の行動がいつかは解決に向かっていくと信じて、対策と思われることを継続していくしかないのかもしれない。
 破壊するのは容易いが、修復するのは難しい。そもそも、早く解決しようとするのが間違いだとも考えられる。私が幼い頃、「当たり前」だった自然の移り変わりが、これからも「当たり前」であるように、未来に向けて行動を起こしていくことを忘れたくない。

 先日、世界遺産を紹介するテレビ番組がイタリアのある建造物たちを特集しているのを目にした。アルベルベッロという地方にある、トゥルッリと呼ばれるとんがり屋根の可愛らしい家々であった。おとぎの国の物語に出てきそうなその屋根は、モルタルなどの接着剤を一切用いず、煉瓦とどの大きさの石灰岩を上手く組み合わせて円錐形に積み上げられる。トゥルッリは、職人が設計図なしに自身の手と目の感覚で作り上げる伝統的な方法で建てられる。その絶妙な形は芸術に等しく神秘的である一方、そのたたずまいが可愛らしくもある。住みにくいそこでの気候に合わせた様々な工夫が凝らしてあり、トゥルッリの中は人間の住処として心地よいものであるそうだ。

 そこに一人のトゥルッリ職人が登場する。現在トゥルッリは世界遺産として保護されているが、遂にこの昔ながらの家の新築要請は途絶えたという。しかし、画面の向こうで彼はトゥルッリを作っていた。先代から受け継がれてきた技術と、経験によって研ぎ澄まされた勘でもって、あの美しい円錐形を作っていた。だがそれは、誰も住めやしない、高さ30cmにも満たない模型のトゥルッリであった。

 私はその石灰岩のブロック11つに、彼のトゥルッリへの愛と、そして悲しみが詰まっているような気がしてならなかった。もし彼が誰かのためにトゥルッリを作るのであれば、どんなにその熟練した腕が鳴ったことだろうか。小さな小さなトゥルッリは、私に伝統のあり方を問いかけていた。先代から伝えられる技術を継承し「伝統」と呼ばれる芸術作品を後世に遺していくことは確かに大切だ。技術だけではない、「伝統」が経験してきた歴史や人々の思いを絶やさないこともまた大切だ。その「芸術」に触れて、我々が「美しい」「素晴らしい」と思うことは失われてはならない。

 しかし、ただ形を残してそれを享受するだけではいけない。トゥルッリのとんがり屋根に接着剤が用いられていないのは、当時の領主が課税を免れるのを目的にすぐに建物を壊せるようにしたためだ。トゥルッリに用いられる石材は、雨水をためるためにトゥルッリ内の地下室を掘った時のものだ。トゥルッリがこれほどまで機能的に、芸術的に美しくなったのは、人々の実用を介していたからに違いない。後世に伝えられるにつれて「よりよいものへ」という人々の思いが濃厚なまでに重ねられていく、それこそが「伝統」なのではないだろうか。

 実用の失われた「伝統」は、昔の形・昔の型を楽しむためだけのものになっている。そういったものは、今後人々の心を魅了し続ける力を持ち合わせてはいないだろう。私たちの思いも及ばない遠い未来で、実用を通して愛され続けることこそが、「伝統」の本来的なあるべき姿なのだろう。

 模型としてできることは、懐古趣味の人間の心を一時的に慰めることにすぎない。あの小さな模型のトゥルッリが悲しみをたたえているように見えたのは、本当の意味で愛される日をじっと待っていたからなのかもしれない。

 私は普段ぼんやりとしていることが多い。そのおかげで脳ミソがぐったりしていて、日常は緊張感にかける。車に乗ったり自転車をこいで頭が動くと、バカな脳ミソは自分が働きだしたと錯覚するのか、ようやく目覚めてくる感じである。

 しかし、本当に目覚めているのか、というとそれはかなり疑わしい。ちょっと気持ち良くなって、目覚めた気になっているだけかもしれない。

 自分の脳ミソが何をしているかというのは、なかなか分かりにくいことであると思う。素直に自分の思うようには働いていない。数学の難しい問題が解けずウンウン言っている時、本人は一生懸命考えているつもりでも、脳ミソは実は全然働いてないらしい。好奇心で色々調べてみたことも、しばしばすっかり忘れてしまう。そのくせ自分では本当にどうでもいいようなことを、一度聞いただけで覚えてしまっていたりする。脳ミソが何に対して活発に働いてくれているのかは、経験的につかむしかないのかもしれない。

 しかし、脳ミソの欲と自分の意志とが重なる時には確かに脳ミソは活発に働いている、すなわち思考している。脳ミソの欲がはっきり分からない以上、自分の意志をできるだけ長く保つことで思考する機会がより増えることになる。

 こんなことを書いているのは、思考している状態がどんなものかというのを私は今一つ分かっていないからである。何かに悩んでいるとき、ふと、自分は本当にその悩み事、いやそれに限らず、あらゆる問題にあたった時、思考しているのか?と思った。自分が何かを考えていると思っている状態が、本当に思考している状態なのか分からなくなってしまった。だからそのことについてまた悩んでしまっているのである。そしてまたそのことについて。やがてせっかく目覚めかけてたような脳ミソは、また眠ってしまうのである。

 

いわずもがな、秋になった。朝晩の冷え込みはかなりのものだし、曇っていると日中でも肌寒い。どこからともなく金木犀の甘ったるい匂いが漂ってくる。街路樹の銀杏も少しずつ色づき始めた。

私は、かなり早い時期からこの場を借りて、秋の兆しを様々な方向から捉えることを試みてきた。しかしここまで来ると、秋を感じることにもはや努力は要らなくなる。自ら五感を開き、周囲に心を配って感じとってきた秋を「積極的な秋」として自画自賛するならば、いま我々が否応なしに受け止めている秋は、「消極的な秋」と言えるであろう。

 これが秋の心、すなわち「愁(うれい)」である。あれほどまでに掴み取ろう拾い上げようとした秋という季節が、いまや大きな流れとなって迫っている。自分はそれを受け身で迎え入れるしかないのである。その何とも言えぬ脱力感・無力感・嘆息感。これが私の感ずる「愁」である。

 その意味で秋は終わった。次は冬の兆しを探すことになる。しかし、やはり冬は暗く寂しい季節である。秋に耳を凝らしたときのような期待感はどうしても持てない。季節というものを意識し、それを繊細に追いかけてゆこうとする作業は、そうたやすいものではないと分かった。

 春の心「惷」は「うごめく・みだれる」という意味だそうだ。春が迫り来る感じだろうが、秋のそれとはずいぶん違うものだろう。ただ、季節の洪水とも言うべきものに心がうずもれてしまう、そのイメージにおいては一致が見られるかもしれない。漢和辞典を繰っても「夏の心」「冬の心」は見当たらない。やはり東洋文化圏における春と秋の持つ意味合いは絶大なようだ。

 

明日の朝吹く風の「しゅう」という音が「愁」に聞こえたら、あなたの中で秋は終わる。
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