05 | 2025/06 | 07 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 |
8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 |
15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 |
22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 |
29 | 30 |
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
フォークデュオ、ゆずの歌に「ルルル」というのがある。楽しそうなタイトルだが、中身はというと、大好きな女の子の家に電話をかけるけれどもその子のお父さんに阻まれて話ができない、という感じのもので、サビのところでは「君と話しがしたい~ 君と話しがしたい~」と歌っている。歌の主人公には悪いが、なんだかきいていて微笑んでしまうような歌だ。
何気なくきいていたけれども、よく考えれば、こういう歌はもう生まれてこないに違いない。なぜかって、いまはケータイがあるからね。「ルルル」が入ったCDは99年3月の発売なので、10年程前はまだ「家電」の時代だったということだろうか。
そういえば自分が小学生、中学生だったころは携帯なんか持っていなかったし、(中学の頃から持っている人が増え始めたと思う)、部活の連絡網とか、友達と遊びに行くときとか、そういうのは全部家の電話を使っていた。いまでは全部ケータイでメールである。
メールが来るのが、なんとなくうれしく感じるときもあったけど、いまやもう、煩わしく、やっかいなものという印象が強い。
メールというものの便利さは、送る側の都合と受ける側の都合が合わなくてもやりとりができる、つまり、電話だと「ごめんいま忙しいから」といって話せなかったり、折り返し掛けると今度はつながらなかったり、ということなく、読める時間に読む、ということができることだと私は思っていた。だから、このあいだ、返信が6時間ほど遅れたために「仕事に支障がでるから」と早く返すように忠告されたときはこっちが困ってしまった。もちろん向こうも困ったからそう言ったのには違いないけれど。
仕方ない面もあるが、「携帯電話」とはいえ常に携帯して注視せねばならないのか、と思うと、ウェブ世界と自分との関係に疑問を感じてしまう。
他にもケータイのデメリットはたくさん挙げられるけれども、ここではあとひとつだけ書いておく。何か。
上に書いたように、面倒だなぁとか文章が読みにくいなぁとか思いながらせっせとメールの返信やらあるいはこちらから問い合わせをしながら(やはり自分もメールに頼ってはいる)画面とにらめっこしていると、これが結構時間を食う。なかなか自分にとって空しく感じられる時間だ。しかし言いたいのはそんなことでなく、家族のいる空間で、私は無言でそういう姿をさらしているということに少し後ろめたさのような気持ちを抱くということだ。自分以外の人は自分がどんなやつとどんなやりとりをしているか知らない。固定電話を使っていたころは、そう、ゆずの歌のように、自分と友達との間に、親とか兄弟とかが入ることがほとんどだったし、自分が受話器をとっても、みんなのいるところで話すから、家族にはなんとなく中身はバレる。バレるというと嫌なひびきだけれど、他の人からすれば、電話の向こうにいる人がどんな人なのか知る貴重な手がかりのようなものだった。私が「~ですが、…さんいますか?」という時に、相手の親は自分のこどもの友達の声をきくことができる。ときにはその友達のおばちゃんとちょっと会話をしたりして。あたたかい。「プライバシー」なんぞ、ばかばかしいぞ!(そりゃ守るべきものではあるけどさ
未成年とか、あと中身が未成年のような人、といったら不適切な発言かもしれないが、とにかくそういう人たちの関わる悪質な事件をよく耳にする中、ケータイというのがキーのひとつであるように感じてはきていたが、上に書いたような観点が今まで(自分の中に)なかった気がした。
「ルルル」の主人公は電話をかける前に、高鳴る胸をおさえ、話す内容を紙に書いて受話器を握る。君と話しがしたい。
似てるかもしれないが、やはりケータイとは違ったものがある。それに、(蛇足だが)こういう気持ちになれるのは多分それだけでも幸せなんだろうと思う。
中島みゆきのある歌の詞に「人は多くなるほど 物に見えてくる」と言う一節があります。やんわりとしたメロディーで歌われ、すぐ後にその逆説が出てくるのですが、この一節のもつ力には相当なものがあると思いました。
社会的に言われる「大衆化」「均質化」と言うのは先述の詞をカタく言ったものといえるでしょうか。人格の無い単位としての「人」。それに伴って、視覚的な物質性(例えば、満員電車から吐き出されるように出てくる人々。朝だと背広率が高くていっそう規格化されたように見えますね)というレベルでの物っぽさがあるでしょう。そしてさらに、物に対してと同じ扱いが起こる、というところを暗喩出来るようにも思います。言葉をかけても返ってこない、使い方を知っていれば自分の意志で動かせる…。
私は勿論人=物であり、操作可能な機械のようなものという暴論を唱えたいわけではありません。近いことを言った政治家はいましたが。普段の生活の中では人は個性をもって個性と向き合っているでしょう。ですが、もし管理的立場になった時に陥る危険が誰にでもあるなと感じました。多くの人を調整する(一般には「人を束ねる」と文字通りな単語が使われますが)となると、無難に済ませたいという心裏があって、個性なんぞにかまってられないとなるのも自然でしょう。さらには国家、及び世界レベルになると、それこそ万単位で死んでも政策といわれる状態になるわけです。
話が広がりすぎました。人々を調整する立場になる人には、単なる数以上のものとして人を見る心がけを失ってほしくないというのが、この駄文のとりあえずの帰結点です。
実るほど頭を垂れる稲穂かな
収穫の季節。私はこの句を噛みしめる。実に佳い句である。実れば実るほど、頭を下げて謙虚な姿勢になる、稲穂、かな。この「かな」というのがいい。教訓じみず、ただただ素直に感動する姿勢。俳句本来の姿勢である。「同じですあなたとわたしの大切さ」にはこの情緒がないのだ。正岡子規が怒り出すだろう。
ところで私は「謙虚」という言葉を使ったが、この言葉だって句の中には全く現れていない。実るほど頭を垂れる稲穂を見て、それを「謙虚」と解釈するか、「寡黙」と解釈するか、或いは「首痛そう」と思うのか、それは読者に任されている。言葉が無限の想像力をかき立てる。これでこそ芸術、である。
たった17文字にこれだけの情感を込められる俳句なる芸術の何と素晴らしいことか。私も俳句にならって今回は早めに筆を置こうと思う。
朝、学校へと向かう途中に、ふと思い立って、いつも通る道とは道路を挟んで反対側の道を通ってみる。あれ、あんな場所にお店があっただろうか、あの看板がある建物はあんな形をしていたのか…いつもより少し、視点が変わっただけで、見慣れている筈の景色から全く違った印象を受け、次々と新たな発見をすることができる。
例えば、帰宅時、玄関に向かうまでの間、毎日のように見上げている自分の家。ガレージにしゃがみこんだ状態で見上げてみたら、どのように見えるのか。いつも、部屋の窓から眺めている雨。外に出て透明なビニール傘を差して、傘越しに空を見上げてみたら、降ってくる雨はどのように見えるのか。実行してみたなら、きっと自分は、何か今までとは違う印象を受けるのだろう。
川の流れを眺めていた。夜の川はとても静かで、街灯の照らす明かりを受けた部分だけが白くキラキラしていた。そのキラキラをみて初めて、川が流れを持っていることを思い出した。当然のことなのだけれど、誰も見ていない夜にさえ川は律儀に流れているんだなぁと感心した。今晩だけではない、この川がこの地球上に存在することになったまさにその日から、上流から下流へ流れ行く作業を止めてはいないことに感心した。
見えないものを見ることの大切さは、他人から教えられても十分には理解できないのかもしれない。なぜなら、それは見えやしないから。私たちの目が捉えることができるのは一定の大きさの、一定の距離の、しかも一定の電波光線に限られている。常に私のそばにあるはずの「心」でさえ見えないのだ。その実に狭い情報に、意味を見出すことは難しくかつ面倒だ。見えないものを見ようとせずとも、私たちは十分に安全にかつ合理的に生きられるのだから。そんな「幸せ」な時代なのだから。
私たち人間はひどく忙しく、それでいてひどく退屈だ。与えられた仕事をただ単にこなし、漠然と頑張ることの忙しさ。それとは反比例して、満たしてくれるものを心が探して止まないという退屈さ。しかし、それぞれに忙しく退屈な人間の時間軸とは異なる世界で、ゆっくりと流れる大河がある。その河は太古の昔から宇宙創生の時から脈々と流れ続けている。誰も見ていない夜にさえ律儀に流れてきた。(誰も見ていないので断言できないが)
見えないものを見るとは、畏れながらもその大河を構成する一滴の水を不意に頂くことではないかと思う。この大河が真理だとは言い切れないが、この水の美味しさは格別だろう。それで十分だ。
「日常の時間をふと止めて、大河の流れを感じてごらん。」本誌「孝太郎」そしてこの「デイリー孝太郎」は私にそう囁いてくれた。見えないものを見ようとすることの意味を教えてくれた。きっとこの人がいなければ、私は相変わらず忙しさにくじけそうになり、退屈さに苛立っていただろう。さて、これからしばらくの間、私は忙しい世界に戻ってみようかと思う。でも大丈夫、河の流れはもう忘れないから。
これはその人の単細胞的性格を表すシーンなのだが、そんなにバカにできたものじゃない(笑ったけど)。私もどちらかというと名前さえあれば満足してしまう方だからである。よく知らないものでも名前さえあればとりあえず知っている気になる。
人間は自分の知らない不気味なものに名前をつけて認識しようとするものであり、これもその類いなのかもしれないが、当然よいことではなく、それぞれのものが持つ理屈の知識はあった方がよいだろう。
しかし我々の持つ知識のほとんどは我々の実生活から離れたところにあって、しかもそれが正しいかどうかなんて確認する機会はなかなかない。実質的に虚ろな知識があるということである。そうした知識というのは、確かに分かってはいるけれども自分にとって重みの感じにくいものであるから、それを本当に知識と呼んでよいのだろうかと思うことがある。どこまでものについて知っていれば知識と呼べるのか、よく分からない。
死ぬまでに得た知識の中で、虚ろな知識のままであり続けるものは数多いだろう。しかしある機会で虚ろな知識が重みを持った瞬間はやはりにやりとしてしまう。虚ろな知識は持っていてもあまり意味はないのかもしれないが、もしかするとそんな喜びのためだけに持つのかもしれない。ならばできるだけいっぱいにやにやできる方が得だな、と思う。
ひたひたと、世の中は冬に向かう。冬とはすなわち悲哀である。冬とはすなわち焦燥である。冬とはすなわち滅亡であり、終焉である。
早い話、冬は季節ではない。少なくとも季節らしくない季節である。春・夏・秋が築き上げてきた様々な季節らしい季節を、ことごとく崩し去ってしまう季節である。次なる季節はしかし、この冬の中で生まれる。滅びつくされたものの中から、全く新たに誕生するのである。前の季節に執着することなく、歴史上全く初めての経験として、その胎動は開始される。
この胎動を準備する二つの要素は、冬に覆われても消えることがない。すなわち、絶え間のない時の循環と、変わることのない母胎のぬくもりである。時の巡りと母なるぬくもりのみが、次なる季節の到来を保証する。
私たちは皆、小さな宇宙である。それぞれが心の中にあたたかな源泉を持っている。芽生えるべき種、かえるべき卵は、そこであたためられて芽生え、孵化する。
私は思う。母胎の外が冷たくなればなるほど、その内部はあたたかくなると。ぬくもりの不変であるがゆえに、外部の変化に相対して内部はいよいよぬくもりを増すように思われるのだ。
そのぬくもりは、じぶん自身をもはっとさせるほどの存在感を発揮する。だからじぶんは内向きになる。懐かしい興奮を伴ったまなざしで、じぶんの奥深いところにあるあたたかな泉を見つめなおすのである。
そのときじぶんは、これまで気に留めてこなかったある重大な事実に気付く。じぶんは心の奥底に、かえすべき卵を抱えているのだ、という。そうしてじぶんは、その卵を一心にあたためはじめる。なぜ今まで気付かなかったのだろうと後悔しながら。もう手遅れではないかと焦りながら。しかしなによりも、来たる春、無事にかえることを願いながら。
それでもぬくもりがあまるならば、じぶんはじぶん以外の人をあたためたいと思う。あるいは、じぶんとじぶん以外の人が共通に持つ大きな卵をあたためたいと思う。人と人とが体を寄せ合って、ただひたすらに照らしあい温めあう。それが冬を生きるものに課せられた使命であり、希望である。
外は、ますます冷たくなる。心の灯火は、ますます燃え上がる。どんな春が待っているのか、それは誰にもわからない。
* * *