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今日は何の日?
孝太郎の誕生日!
ということで今日は文学誌孝太郎の創刊記念日でした(勝手に制定しました(笑
B4一枚からはじまってもう2年。いや、まだ2年か、というような気もします。ずいぶんいろいろありましたから。楽しかった。ふわふわふわ。
しかし私は思い出にひたり過ぎてしまう傾向にあります。もうあれを超える素晴らしい日々はこないのではないかと。そうなるとどうしても過去にばかりに目がいって、ずるずると時間が過ぎてゆきます。
とはいえ、私もあと少しで二十歳ですから、「あれを超える日々」はきっとやってくるということが経験的に少しわかってきました。ある人の言葉に「過去はないのだ おまえが勝手に思いだしているだけではないか」というのがありますが、そうはいっても過去は、やはり無意識に美化しているのか、どこか独特な光を放って私を誘惑するのです。
こういう「思い出症候群」だった高校生の私は、こうしてひたってばかりいるのは何か違うぞ、と感じていて、そしてやっとはっきり意識したのが、いまが一番楽しいと思えればいいんやん、というごく簡単なことでした。
いまが一番楽しいを感じながら目指しながらやっていこう。もちろんいまというのも過去あってのもの。切り取っちゃえという訳ではありません。
今日は孝太郎へのアクセスがいつもより少し多くて、しかもデイリーより多かった。もしかしたら「あのひとたち」が11号を期待してくれていたのではないかと想像して、心がはずむとともに、はやくアップしなければ、と強く思いました。そして、生きている限り、遠く決して触れられない、あの人、あの場所、あの時間とも、つながっているんだな、という感覚を覚えました。
「そんなん意味無いやん」という批判か非難かツッコミかよく分からないような発言をたまに聞きます。文脈はさまざまです。ボケでシュールなネタを使った時笑いながら言うときから、青筋立てて人差し指を突き出しながら言われる場合まで。後者の場合はかなり言われるとキツいですが。当然。
しかし、これも陳腐な励ましに多いですが「やってることは必ず意味があって、実を結ぶんだよ」とも聞きます。こちらはやっても成果が現れない場合について言われるか、悟ったような顔をした立場が上の人間がよく使います。あくまで個人の意見です。それを踏まえて、「意味が無い」とはどういう意味なのか、という問いを頭の中で弄んでみました。
蓋し、やってることにはいちいち意味があるものです。いやむしろ、人の特徴であると思いますが、どんな事物についても意味を見出さずにはいられないものです。シュールレアリスムの絵画を見たときも、理解不能、超現実的、とした後、あるときは「これは時の不確実性を暗示しているのである」と評論家が唱えたり、あるときは「これは全く理解不能で何を意味しているのかわからない。しかしこれこそシュールレアリスムの具現化なのである」などと、意味の分からないことがその意味だというようなことが叫ばれたりします。また、偶然こぼれた墨汁の染みが「蝙蝠に見える」と思えたりもします。また、ちょっと違う次元では、例えばハイキングに行ったとき、眼前に広がる自然に対し「癒し」と、自然を感じつつもさらに意味を付与しようともします。目的を付与することとは違う動きであるように感じます。「癒し」のために自然に行くことと、広がった自然に「癒し」を付与することとのずれ。
また、「意味無いやん」の場合の意味とは何でしょうか。まとめて考えると、実際的・生産的なものかどうかの一言に尽きます。本当に意味が無いならば理解すら出来ないはずです。聞いた相手は意味を(たとえ筆者の吐くシュールな駄ネタであっても)一応は状況に当てはめて理解できています。そして、それが現実においてなんら有効ではない、実際に起こり得ないことを指摘して「意味無い」と切り払っているのだと思います。また冒頭の励ましの「意味」ってのは生産的な利益がある、という意味ですよね。意味が意味するところの意味や意義を探る。
「全てに意味がある」ってのは全てに意味が付与されているわけです。逆に、原理的に意味は無いのかとも感じます(文字なんてその典型ですよね。このブログ上、ただの黒い点の集合です。)そんなことを無意味に考えた筆者の時間に意味はあったのかどうか。ただそういった意味に価値をいちいち見出す人生に意味はあるのか。人生にまで意味を求めるのか。そろそろ切り上げます。
その日、私は講義が行われている最中の講義室で堂々と昼寝をこいていた。そのことの道徳的問題は、とりあえず今は問わないでいただきたい。そして、これから私が述べる、論理的を装ってその実だらだらと長いだけの文章は、私が経験した不思議な夢を強引に説明するための私の勝手な妄想に過ぎないことをお断りしておく。夢のメカニズムに関してはちゃんとした研究がほかに何なとあるはずである。
講義中の昼寝には独特の面白みがあって、なんとなれば講義の音声情報が耳に流れ入り続けるため、その情報が脳内でイメージの連鎖を起こし、結局現実の場面に近い夢の世界が構築されやすい。すなわち、夢の中でもまた現実と同じように講義を聞いていることになる。夢中の人間はその夢を現実と思いやすい傾向にあるもので、私は夢の中でもまだ眠たかったため、またぞろ机に突っ伏して寝てしまった。こうして2次の夢がやってくる。1次の睡眠が2次の覚醒である。帰納法的にn次の夢がやってくる。こうなると「夢か現実か」などという一元的対立は意味を成さない。n次とn-1次の差も、1次と0次の差もたいした違いではないのだ。
ところで、0次から1次への移行の際に、0次の聴覚が1次の意識感覚に作用を及ぼしたように、夢を行き来している途中で自分の感覚の一部が別の次元に置き去りにされ、感覚全体がちぐはぐになることがある。金縛りなどはおそらくその一種なのであろう。私は金縛りにあったことはないが、その日の私の居眠りの場合、視覚を一つ下の次に置き去りにし(眠っていながら目で見ることが可能なのはその下の次も夢だからである)、運動感覚は上の次にあった。するとどうなるか。上体をむくっと起こしてみても、目に映る画像の方が全く動かなかったのだ。驚いた。単純に「死んだのだ」と思った。幽体離脱という言葉が浮かんだが、幽体離脱だって視覚と運動感覚が一体になって自由に動き回れるはずである。本当に、全く未知の感覚だった。
デイリー孝太郎の記事は匿名で書かれる以上、一般性の強い話題を持ち出すのが普通である。しかし、今回、どうしてもまとまった文章に残しておきたい体験だったため、この場を借りて個人的な備忘録にしてしまった。大して面白くもないのに。ごめんなさい。同じような夢を見たことのある方がいらっしゃれば、是非お聞かせ頂きたいものです。
確か私がまだ3歳か4歳の頃であっただろうか。現在住んでいる家に引っ越してきたその日、我が家が建っている一帯にはまだ電気が通っておらず、蝋燭の灯りで一晩を過ごすことになった。寝る前に少しだけ外に出てみようかという話になって、肌寒く、どこか張りつめた空気が漂う中、姉と一緒に外に出て空を見上げてみると、そこには無数の星が川のようになって輝いていた。
私の住む地域は田舎ではあるが、引っ越してきたばかりの頃から、開発はどんどん進んできている。人が増え、建物や商業施設が増え、交通機関が便利になるにつれて、空に見える星も少しずつ減っていった。現在では、あの日見えた星空をもう一度眺めようと思っても、決して叶うことはない。
科学技術が進歩する中、我々の身の回りはどんどん便利になり、以前よりも生活は快適になった面が多いように思う。しかし、便利になっていく一方で、確実に我々は何かを少しずつなくしてしまっているようにも感じる。決して、今の便利さを捨て、昔に戻るべきだと主張するつもりはない。だが、なくしてしまい、見えなくなってしまった「何か」に目を向けることなく、このまま便利さを享受し続ければ、我々は、いつか後悔してしまう気がしてならない。
いよいよ冬だな!と感じるのは納戸に眠っていたストーブがまた活躍をはじめたからだろう。灯油のにおいが私をなんとなく懐かしい気持ちにさせてくれる。着火してからと火を消してからの少しの間は嫌な臭いがするのはわろし。
今日の気温はそんなに低くなかった。11月ってこんなもんだったろうか?と思うくらいである。私の友人には今年の3月くらいから京都に住み始めた人も多くいるのだが、「あの寒さ」を彼らに伝えるにはあと数か月か待てばよいのだろうか。
冬、この季節は正直言ってまだよくわからない。島崎藤村の「三人の訪問者」を読んだことがあるのを思い出した。いやぁ、冬がまったくもって負のものだなんて思っちゃいませんよ、良いと思いますよ、冬も。なんて言ってもやはり「そんなにお前は私を見損なっていたのか」と冬に怒られそうである。季節をappriciateするのも、ただ自然の中に立っているだけじゃ不十分な気がするね。
ところで、ここのところ暖冬暖冬と言われるのを聞いてなんだか寂しいなぁなんて思う私の家で、それほど寒くもないのにストーブが稼働中だ、と思うとちょっと情けなくなる。
冬こそあえて外に出よう。
「2006年生まれの名前」は男の子で「陸」、女の子で「陽菜」がトップだったという。保険の加入者しか調査対象になってないので、統計学的にどうなのかという疑問があるが、それはさておき、ランキングの年別ベスト10というのを見ると面白い。女の子で「~子」というのが少なくなっているとかいう話題もあるが、それより、大正までさかのぼって順に見てみると、「名前は世につれ」だなぁと感じる。昭和2年、3年のトップがそれぞれ「昭二」「昭三」だったのには笑ったし、太平洋戦争(と呼んでよいのだろうか?)の時期が近づくにつれて「清」がおさえられ「勝」「勝利」「勇」「進」が上位を占めてくるのをみると何か考えさせられる。
最近では、おかしな(奇怪な)名前が増えているらしい。付けた人でなくては読めないような当て字もあるようだ。名前は子供が一生背負うもの。親は考えて考えて付けるものだと思うのだが。
上のランキングは検索をすればすぐでてくるし、見て気分を害する恐れもないと思うので、一度見てみてほしい。名前の羅列からでも、膨らませられる考えはある。
習慣づけて何かをやるのは苦手なのですが、毎週途切れず更新します!
よろしくお願いします。
では今日は電車での出来事を一つ。
同じ制服に同じカバンを持った私立の小学生たちが6~8人でわいわいと大きな声でおしゃべりしていました。
明らかに皆さんちょっと不機嫌そう・・・。
奇声を上げているわけではないのですが、ポケモンがどやこやとやはりマナー違反な気がしました。
結局何事もなく小学生たちは去って行きましたが、注意とかすべきだったのでしょうか?
注意するとしたら何と言ったらよかったのでしょうか?
マナーとは難しい問題です。
車とかタバコとか・・・。
最近京都の道も歩きタバコ禁止になりましたね。
果たしてマナーは罰を与えないと成立しないのでしょうか。