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孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
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 まだ11月ではありますが、自分の中では、もう年末の空気がもわもわと漂いはじめています。また今年もきたか、みたいな。
 小さい頃、年末年始はほぼ毎年祖母の家にいてそこで年を越していました。大勢でごはんを食べながら紅白歌合戦やなんかを見る訳です。小さい頃ですから私はたいてい0時になるまでに寝てしまっていたのですが、ある年、あと数時間後に新年がせまっているときにこんなことを考えたのを覚えています。
 そのとき頭の中には時間軸、数直線のようなものが浮かんでいて、矢印が22時くらいのところから翌年の0時に向かってゆっくりとすすんでいきます。そのまま直進していけばめでたく新年をむかえるということになるわけですが、そのときは、「Power Of Ten」の後半のようにどんどんと矢印の先端と0時を示す点との間にズームしていって、いくら時が経っても0時のところにたどりつきませんでした。
 いま思い返せば、これはゼノンのパラドクスのようだな、なんて思いますけれども、このときの不思議な感覚はなんと言っていいやらわかりません。
 数学的な観点から考えれば、連続性とか、無限級数の和がどうのとか、そういうことがこの問題のヒントになるような気がしてはいますが、私はまだ、まったくと言っていいほど不勉強で(数学的観点なんて言ったって、私は数IIIですらまだちゃんとわかっちゃいません)、小さい頃の自分と一緒に不思議な感覚にとらわれていることしかできないでいるようです。
 しかし、あの頃の自分の「どういうことだろう」という気持ちがいまも自分の核にあって、たまに出てきては私を動かそうとしているような気がします。
 普段は、なんというか、一種実利主義的に、極限の計算問題をやったりしてますが、そんなことをしている最中も、「どういうことだろう」に急かされている感じがすることがあります。もちろん、いわゆる受験数学のようなものも面白いとは思いますが、もっと深い学問の世界に飛び込みたくも思います。そう言えば、入学試験をつくっているのは学問の面白さを知っている先生たちであって、彼らは「受験数学」なるものに興味はないのだし、予備校なんかで受験テクニックが教えられていたりするけれど、ほんとは高校生だって学問だと思ってどんどんやったらよい、それで受かるようになっている、みたいな話を先日ひとからきいてハッとしました。
 なんか数学について語っているような文章になってしまいましたがそういうつもりはありません。寒い空気の中、ふと「あのころ」を思い出して、ひとり熱い気持ちがよみがえってきたような気がしたのを、書きとめておきたかった。そして、他の人にも「どういうことだろう」を追究してほしいと思った。そういう訳なのです。

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先週はコメントありがとうございました~!
みなさんはどんな三連休をお過ごしになりましたか?
ちなみに私は祝日も授業があり、ただのフツーの休みでした・・・。
では今日は我が家の1コマをご紹介。

みなさん、「じゃがポックル」って知っていますか?・・・では、「ジャガビー」というお菓子を知っていますか?・・・では説明します。
ジャガイモのスティックスナックで、「ジャガビー」のほうはコンビニでも売っているので、一度見てみてください。
「じゃがポックル」のほうは、北海道産のじゃがいもを使った、いも本来の味を大切にした「ジャガビー」って感じです。
これは北海道限定商品です。
白い恋人がごっそりお土産コーナーから姿を消した後、この「じゃがポックル」ががっつり儲けたらしいのです。
売れすぎでかなりレアな商品になっている模様。
まぁ、この「じゃがポックル」、北海道出張の多くなった父に母が買ってくるように強く言っていたものでして、先日ついに父は2箱も買って来ました!

「お一人様3箱までだったけど、カバンに入りきらないから、2箱しか買えへんかった。」

「お一人様3箱まで」このフレーズ、よく聞く言葉だとは思いませんか?父の発言を見れば、そもそも3箱買わなければいけない考えが念頭にある発言になっています。
1つでいいのに、3つまでと言われると、なんだか3つ買わなければいけない感覚に襲われる。
これって不思議な感覚ですよね。
もったいない!とかせっかくやし!とか、思いはいろいろあると思います。
しかし、もしそれが経営戦略なら消費者として、私たちが気を付けていかなければならないことかもしれませんね。

 先日筆者は「人は多くなるほど物に見えてくる」という詞からちょっと唐突な論をぶち上げましたが、今日はその続きとなりうる話です。

 

 自殺、についてです。まあ言っちゃなんですが人気な話題。これについて語るとこの一回ではおさまらないくらいの話をしたくもなるのですが、今日は今年出されました政府の「自殺対策白書」を読んだことから多少、雑感を述べます。

 

 政府の「自殺対策白書」。今年はじめてまとめられた物なのですが、年間3万人を超す人々が自殺している現状を鑑み、2016年までに自殺者の数を2005年の時よりも2割以上減らすことを目標とし、相談体制の充実、インターネットの自殺サイト対策、鬱などへの診断技術向上、そして自殺予防教育、多重債務者への相談体制拡充、多忙な介護者を支援することなどが重点項目として挙げられています。また、高齢者自殺の率の高さが問題になることを懸念する内容も含まれています。

 

 さて、それ自体はようやく政府も対策を文章化し始めたか、と思ったりもするのですが、いささか気になる点が。

 

 何しろ2割減です。20%引きです。それが目標なのです。2005年度が人口動態統計によると30553人。つまり、確認されているものです。その2割ですから6110人くらいです。つまり年間自殺者が(把握した数の上で)来年当たりに24000人くらいで済めば目標達成です。世界に誇れます。そして対策は自殺はいけないんだよ、命は大切だよ、と子どもに教え、「いのちのホットライン」のようなものを設置するわけです。

 

 政策についてはいちいちこれ以上は述べませんが、何か空恐ろしいような気持ちになります。政府が個人の自殺意思にまで口を出すかについてはいろいろ賛否あるかと思いますが、無謀であっても自殺者はゼロにしたい、くらいの意思だけでも示してほしいものです。何か余計な公共工事の出費を抑えるのと同じような感覚で自殺者を減らす、と言ってるような印象になります。筆者は比較的「命は大事なんだよ」と思っているので、余計にその非人間性といいますか、無感覚さというかに敏感になってしまいます。24000人ならいける、というのは何処から来た感覚なのでしょうか。そして真っ先に教育がネタに上がりますが、心配すべきは大人のほうです。

 

 そこで、何時ぞやの詞を思い出すわけです。マクロな視点に立ってもミクロな人間を見失わないでほしい、というようなことをここに「とりあえずの帰結点」として書きましたが、それが欠けてる現場にこうも速く出会ってしまったことが、すこし残念に思えます。
 喉が渇いたので、コンビニに入ってペットボトルのお茶を買う。鞄に空きがあるので、ビニール袋を貰っては余計なゴミになって邪魔だ。ここはひとつ「あ、袋要りません」と店員に向かって言い、ペットボトルをビニール袋に入れずに直接渡して欲しい旨を伝える。店員としては、その申し出を聞いて、そのままペットボトルを差し出せば職務をまっとう、給料が無事支給、安定した生活、となるわけであるが、やはり何か意味のある言葉を発した人間に対して無言でその命令に従うのでは具合が悪い。
 そこで店員さんは様々なレスポンスを試みる。「恐れ入ります」。これはもっともシンプルな返答だろう。出過ぎたことをしました。お客様の意図を汲めなくて申し訳ありません。そんな意図など汲めるはずもないが、一応何の言葉もなく通じ合えるのが理想、ということにして、店員の側が謝る形をとることで一応その場が調整されて安泰。何とも日本的な語彙である。
 或いは「ありがとうございます」、こんなのも聞いたことがある。店員はいったい何に感謝しているのだろうか。店ごとにレジ袋削減のノルマでも決められているのかも知れない。目標到達に貢献して下さいましてありがとうございます。もし本当にそうだとしたら、こちらも日本的な、そして現代的な考え方であり、何とも悲しい気持ちがする。目標を設定してしまうと、その目標を設定した意味、意義が見えなくなってしまうのだ。隠蔽体質、賞味期限偽装。ああ、やだやだ。
 私としては、自然な笑顔で一言「はい!」とでも言ってもらえれば一番嬉しいと思う。下手に言葉を重ねず、場に合わせた無理のない表情を作る。これが私のもっとも愛する"日本的"である。何か、地球温暖化という問題が権威的すぎる(重要なことだとは思うが)ために、誰かに見張られているような、ぎこちない心持ちになっているところが、われわれの中にあるのではなかろうか。
虹の色は何色だろう。

 虹の色の数は日本では一般的に、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の7色だと言われている。昔は、それが当たり前の事実であると思っていたが、実際は文化によって虹の色の数は異なる。イギリスやアメリカでは、青と藍を区別せずに6色(但し学術的には7色とするようだ)、ドイツではさらに橙と黄を区別せずに5色、また民族によっては暖色か寒色かの区別しかせずに2色とするらしい。

 虹は連続的に色が変化しているので、色に対する認識の違いによって、このような見方の違いが出てくる。文化や言語によるところも大きいだろうが、たとえ日本内でも、実際に虹を見たときに、虹が何色なのかを数えたなら、その数は人によって異なってくるのだろう。

 目に飛び込んでくる光は同じはずなのに、その色の受け取り方、捉え方が違うというのは、なんとも不思議な気がする。自分が「青」だと認識している色を、他人は「緑」と認識することもある。一人ひとり、目に飛び込んでくる世界の色が違うのだから、人によって世界の見え方も違うのだ。漠然と人は、世界の見方を共有できると思っていたが、今、眼前に広がっている世界は自分だけのものであり、それを他人に共有してもらうこともできなければ、逆に、他人に見えている世界を自分が共有することもできない。

 

 私は絵を描くことが好きだ。自分が綺麗だなあと心惹かれた色、色合いを思い浮かべながら、それをキャンバスに閉じ込める。自分の思った通りにその色を表現できたときには、喜びを感じる。だが、思い浮かべながら表現したその色は、頭の中からキャンバスに飛び出たとしても、他人から見れば、それはその人の「色」であって、自分の感じた色とは違うのである。

 20日というのは(私にとっては)バイト代が振り込まれる日なので、はやく振込確認ハガキみたいなのが来ないかなーと心待ちにして、何度も郵便受けを覗いてしまう。振り込まれたからと言って、ほんのわずかな額だし、どうせ特に使い道もないので、お金があるかないかは別として、単に自分のしたことに対してそれが支払われたという事実にうれしくなっているだけな気がする。
 そんな私がたまにお金をつかうといえば、専ら書籍代としてである。本を(いや、なんでもそうだが)買うときのワクワク感が私は好きだ。参考書や問題集の類を手にレジへ向かうときでも、やってやるぞと奮い立つような気持ちになる。
 ただ、それを買うまでには、何度も本屋に足を運んで、買わずに帰る、ということをやっている。よくよく見定めて、惚れこんで、これぞ買うに値する!という情熱と、財布が財布として機能している(つまりちゃんとお金が入っている)ときが重なれば、その本はレジへ運ばれることとなる。
 そうして手にいれた本がどう私のためになるかと敢えて問えば、たちまち私の駄目さが露呈してしまうだろう。先に書いたバイト代のように、手に入れた時点で満足してしまって、本は棚に“陳列”される。宝の持ち腐れ。時々手にとって、面積の小さい面(?)すなわち紙の端が集まってできている面の手触りを確かめたり(すべすべして心地よい)、前書きを読んだりペラペラめくってみたりしてうんうんと頷く。「大事なのはどうやって金を稼ぐかではない。稼いだ金をどうやって使うかだ」、とはよくきく言葉だが、「大事なのはどんな本を何冊持っているかではない。一冊の本をどれだけ使い込むかだ」ということも心に刻みたい。
 ちなみに、新書や文庫本でもあまり安くないものが多いので、だいたいの本は図書館で借りて読むことにしている。読んでるうちに、これ選んだのは失敗だったと思えば返すまで。いつまでも家に置いておけるより、返却期限があった方がちゃんと読む。などなど理由はたくさんつけられるが、なんといっても図書館というもの自体、貸出、返却の手続き、自習しようと思っ…たけど睡眠!という様子などすべてひっくるめて、好きだからというのもある。少し残念なのは、高校とか府立、市立の図書館の本の数は多過ぎて、「図書館の本はすべて読みました」なんてことができないことである。

一週間の始まりである月曜日。
遅刻しまくりの月曜日。
ストーブの長い休みが終わりを告げた月曜日。
そんな月曜日に、今日も孝太郎をのぞきに来てくださった方、どうもありがとうございます!


では本日はバイト先の話を。

私は6月頃から塾講師をやっています。
そこは、生徒2、教師1の個別指導を行っている塾です。
生徒を両脇にして、教えているのですが、たいてい両脇の生徒同士は知らない者同士です。
学年も教える教科もバラバラです。
そんな職場で私は個人的に、生徒たちに新たなコミュニティーを提供したい思いがなんとなーくあるのです。
2人に同じ質問をしたり、右の子の話に関して左の子に意見を聞いてみたりと、話をする「機会」、「チャンス」を提供したりしています

この間は、学校も学年も違う中学生2人にジャニーズの話をしたところ、2人ともジャニーズ好きなことが発覚!
教材のコピーでちょっと席を外している間に意気投合していました。(間の席に戻りにくい・・・)
帰り際にHay!Say!ジャンプの山田くんの画像を交換したりして、なんだか微笑ましい。
ジャニーズは人の壁も越えていけるようです。

友達の友達は友達。
今回は先生という私を通して、2人は知り合い、3人のコミュニティーが出来上がりました。
つまり△な関係になれたわけです。
これをネットワークの科学では、クラスターと言います。
このクラスターは人々に安心をもたらします。
5人組も五角形に繋がっているわけではなく、実は△の繋がりが組み合わさって出来ているのです。
情報のネットワークが拡張し続けている今、人のネットワークについて少し目を向けてみませんか?
そんなクラスターなるものやネットワークについて紹介されている本を最近読みました。↓↓

「私たちはどうつながっているのか  ネットワークの科学を応用する」
著作:増田直紀
中公新書
2007年4月25日発行

もしよければ手にとってご覧になってみてください。
秋の夜長が終わってしまう前に。
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