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孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
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 今日で、私がこのデイリー孝太郎のための原稿を書くのも最後である。今年は。

 さて、どんなことを書こうかと自転車をこぎながら考えた。頬にあたる冷たい風が心地よい。静かな夜だ。最後だから最後らしい文章を書きたい。しかしどうもいいアイデアが浮かばない。どうしよう。

 と行き詰ったとき、前方1.5m程のところに、茶色い布のかたまりのようなものが落ちているのが見えた。うわぁあ、と言って私はハンドルをきり、なんとか「それ」にぶつからずにすんだ。手足のようなものが見えたから、それにたぶん縞模様をしていたから、たぶん「それ」は「あれ」だったのだろう。とても寒かった。

 鴨川にかかる橋の半ばで空を見上げた。月がとても明るかった。そしてそれにも負けず、星々がたくさん輝いていた。たぶん「あれ」も、そのうち星になるのだろう。

 今年も終わり。この一年、多くの命が様々な形で消えていったことだろう。少し寂しかったり悲しかったりする。しかしそれはまた新たな命が生まれてくることも意味しているのだと、そう考えることもできる。そう期待して、来年存在している命が幸せであるように願って、私は今日眠りにつく。

(26日と30日で執筆者を入れ替えてお送りしています。)

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 限界とはなんだろうか。私はまだ限界にぶちあたって打ちのめされたということがない。たぶん。

 もし、生まれながらにして自分の一生がどんなものであるかが決まっているならば、それは私の人生が制限されているということになるのだろうか。

 私の人生が3か月後に終わる、と告げられるのと、30年後に終わると告げられるのと、いや、いつ死ぬか、長いやら短いやらわかりませんと告げられるのと、どう違うのだろう。

 今日の次には明日がある、とか、「5メートル先」の向こうには「6メートル先」があるとか、思いながらの暮らしをしていると、不意に「限界」にぶちあたったときに、やはり「信じられぬ」という気持ちがまず起こると予想する。

 あまり知らないことを書くのもいけないが、昔は、生まれたときから、さまざまな限界と隣り合わせに生きてきたのではないかと思う。それに対して今はどうなのだろう。一見、限界はときとともに取り外されてきているように、少なくとも私は感ずる。ただ、それにしては、生きにくい世であるという印象も抱く。矛盾したこの現象をどう説明すればいいのか、私はまだよくわからない。

 少なくとも、いつかは自分も、なんらかの限界にぶちあたる日が来るに違いないと思う。そのことをふまえて、私が実際どうしていくべきかは、考えるに値することであろう。生きにくいのはいやである。また、限界にぶちあたっても、それに耐える力もほしい。しかしこれは多少おこがましいというか、私の言うべきことでない。やはり、限界とは何なのか、それが知りたい。それには、自分で走りださなければならないということか。そろりそろり、と歩いていては、たとえなにかに背中をぶつけても、それが壁であるのか、のれんのようなものであるのか、わからない。まして立ち止まっていては足元は腐ってゆくだろう。

 おっと、これでは話がおかしな方向へすすむばかりだ。実際に、そう、私がいまなにをすればよいのか、なにをしたいのか、これを考えなくてはならない。自分のことを考えることが求められているのだ。それは、もしかしたら、自分の限界を知るということになるのかもしれない。

クリスマスイブですね☆みなさん今年のクリスマスのご予定は?あ、くれぐれも私の予定は聞かないでくださいね~笑

今日はまたまた心理学的なお話にお付き合いください。

「相手の立場に立って物事を考える」とはよく言われることですが、相手の立場に立つことができたとしても、そこで自分のように考えて
しまってはいけないのです。
それはただの同情で共感ではありません。
真の共感とは「相手の立場に立って、相手のように考える」ということです。
今まで私は相談されることも多く、様々なことを客観的に考えてこれたと思っていました。
しかし、それはただ話し手の経験を客観化、相対化し、一般的な解答をしてきただけだったのだと初めて気付きました。
心理学は科学です。一般的であることは何ら不思議なことでも間違っていることでもありません。
しかし、一人一人の心はこの世の中で唯一無二な存在です。
目の前にいるオンリーワンな他者をとことん追求していくことも、重要なことであると感じました。

2人で時間を過ごすことは簡単です。しかし、時間を共有することはとても難しいことです。
よいクリスマスをお過ごしくださいね♪

   

小学生だったころ(もしかしたら中学生になっていたかもしれない)のある日、私は夕飯を食べながらテレビを見ていた。所ジョージがでていた。その番組の中で所ジョージは自分が書いた本を紹介していて、その中の一節を紹介して、面白いでしょ、と宣伝していた。その紹介された言葉が当時の私にはとても響いて、「なるほど!」と思ったことを覚えている。

先日、友人と話をしていたときにふとその言葉を思い出したので、所さんがこんなことを言ってたよ、とその言葉をもちだしたところ、「あぁ、ニーチェですね」と返ってきた。私が数年前にきいたあの言葉は実はニーチェが言ったことらしかった。食べながらだったし、よくきいていなくて、そう言えばそれがどんな本であったかも所ジョージがどんな風に紹介していたかも覚えてないのだが、ここで変に取り繕ったりしては余計にみっともない。そんなことはどうでもよくて、私はその瞬間、一種の衝撃を受けた。感覚的には足元の地面がパッとなくなったかのようなイメージ。

さてまた別の話だが、CMとかドラマとかである曲が使われていて、この曲はよく耳にするけどなんという曲だろう、ということがよくある。最近では、ある携帯電話会社(?)のCMに使われていた曲で、しばしば聞くけれどもわからないというのがあった。こういう曲が、なんとなくかけたCDをきいていると不意に流れてきて、あわててCDのジャケット()を確認して、ああ!○○という曲だったのか!となったりする。上にあげたCMの曲の場合、テレビで札幌交響楽団をとりあげた番組をやっていて、その中でプロコフィエフのロメオとジュリエットが演奏されるシーンがあった。ロメオとジュリエットって確かよくわからん曲だったななんて思ってほかのことを考えていると、例の曲が流れてきてびっくり!という具合だった。

さて、またまた別の話だが、3年くらい前に、友人との会話の中で、私には意味不明な言葉が使われたことがある。(そういうことは決して稀ではない)。それは私の語彙力の問題ではなくて、それが何か「ネタ」のような感じであるなという印象を受けたのだが、とにかく私はその意味がわからなかった。(笑えもしなかった)。ところが、先日、私がラーメンズという2人組が何年か前にやったコントを見ていたところ、なんとその3年くらい前に友人から聞いた意味不明な言葉がそこで使われていたのである。彼はこれを見て使ったのだろうな!と思った。

 

ときに、上にあげたような「そうだったのか!」的体験が、私はとても好きである。これら3つは微妙にタイプが違っていて「そうだったのか!」にもいろいろあるのだが、やはり一番「!」なのは学問(という言葉を使うのは少し怖いけれど)に関係することであることが自分にとっては多い。例えば、無限の概念について学んでいて、小さいころから不思議だなと思っていたことに少し光が差したとき。あるいは、社会学の講義を受けていて、そこで語られる人間とはという問いに対する教員の考えをきくとき。言葉にできない楽しさがある。また、誰かの残した言葉(名言と呼ばれたりすることもある)あるいはどこかで読んだ文章、あのとき聞いた言葉が、自分が生きているなかでふと「あの言葉はこういう意味だったのかもしれない!」と感じられる瞬間もある。学ぶという言葉は「真似ぶ」からきていると聞いたことがあるが、これは誰かの教えなんかを、とにかくいったん覚えて、時間をとおして、自分がその誰かの言いたかったことを追体験するような(そこで「~だったのか!」と思うことになる)、そういうことが学ぶであるということなのではないか、と思う。(蛇足かもしれないが、こういう意味で、本を読むのは大事であるし、実践もまた同じように大事であると思う。)

 以前「通りすがり」という詩をこのページに掲載しました。服についた草の実からの詩だったのですが、同じような題材から山村暮鳥が作った詩を見つけました。著作権の心配があるのですが、死後50年は経っているので…

 

 憎悪のなかにも……     山村暮鳥

 

憎悪のなかにも愛がある

その愛をたふとめ

 

あるとき

着物についた草の実が

しみじみと自分に

この一つのことを気附かせた

 

簡潔です。少し説明っぽいです。ですがいい詩だと思います。同じくっついた草の実でもこの表現の深さは前述の戯れ詩より格段にあります。

 

 詩と詩でないものの区分についてはよく悩むところです。同じように、詩人と詩人でない人の区分も難しいです。例えば草の実がくっついたとき、「もう、いややわぁ、払うのめんど。」と言いながらひたすら取り払う人は詩人ではないのでしょうか。極めて、一般的な対応。何となく「かたくななるもの」という言葉が当てはまりそうな雰囲気ではあります。しかし、ここから詩は生まれないものでしょうか。興味関心が詩に向かわなかっただけではないかと思ったりします。

 

 そして、これが詩人でないなら、それ以外の対応をした人は詩人なのでしょうか。例えば前述の戯れ詩を作った者は詩人でしょうか。山村暮鳥は挙げたような詩を同じ題から紡いでいる。そう思うと、極めて一般、平凡な感情を連で分けて書いただけのように思われてもおかしくありません。

 

 寺山修司の言葉に「人は一生に一度だけ詩人になる」というものがあります。造詣の深い言葉。これを思うごとにまた、詩人ってなんだろうと悩んでしまうのです。誰もが詩人に見えて、誰も詩人でないのではないか、と訳の分からないことに落ち着いたのは1度や2度ではありません。

 

 本を読まない人が本を論じても達するところは限られるでしょう。ですので、戯れ詩でもまた書いて、考えてみようかと思うのです。

 今年も早、おほつごもり近づきて、「一年を振り返る」なんていう季節。
 日本漢字能力検定協会が一般に公募して毎年発表している「今年の漢字」。2007年の漢字は「偽」だそうだ。
 ひとつ、思い出されるのは、Mr.childrenというバンドが、今年一月に「フェイク」と題した新曲を発表していたことである。予言とまでは言わないが、潮流を巧く読んだ絶妙のタイミングであったと思う。情報過多で何を信じて良いか分からない。自分の存在すらも偽物のよう。この感覚は現代情報社会に生きる者にはある程度共感できるものだろう。複製技術の発達によって本物と偽物の区別がつかなくなり、芸術作品が権威を失ってしまった、というヴァルター・ベンヤミンの指摘はもう80年も前の話になるが、いわゆるIT革命によってこの傾向は近年さらに加速したようにみえる。
 ところで、そもそも「偽」という言葉は「似せ」から来ているわけだが、何かを何かに似せる行為というのはもともと非常に人間らしい創意工夫に満ちたことではないだろうか。芸術にしても、自然物を紙の上に似せて描いたものが始まりであろうし、印刷技術もラジオもテレビもファックスも、結局は何かを何かに似せて再現したいという思いの現れだと思う。
 だからこそ、「来年こそは偽りのない年に」という言葉が私にはとてもナンセンスに聞こえる。偽りをなくそうとする行為は次なる偽りをまた生んでゆくばかりだ。一度似せて作ってしまったものを元に戻そうとしても、畢竟それは人間の作為が加わった「似せ」なのである。自然は不自然な観光資源としてしか存在し得なくなってしまったのだ。
 恐らく問題なのは、感覚が麻痺して「偽」を「偽」だとも思わなくなってしまうことだと思う。自分の中に存在する、誰かによって或いは自身によって作られた「似せ」の部分に自覚的でありたいと思う。

大学や習い事先から家に帰ってきて、インターホンを押し、家族の誰かが玄関の鍵を開けてくれるまでの間、ぼんやりと星を眺めるのが最近の日課だ。小学校のときに習った星座など今ではほとんど忘れてしまっていて、空を眺めていてもオリオン座くらいしかわからないが、ある日ふと見上げたときの星空があまりに綺麗だったので、その日から毎日眺めるようになった。冬は空気が澄んでいるからか、星が他の季節のときよりも綺麗に瞬くような気がする。

冬は、身体が縮こまってしまって、習い事のとき、柔軟するものも一苦労で上手く動かないし、手がかじかんで、文字を思いどおりに書けないこともある。さらに、高校までは苦手な長距離走の授業があったりもしたので、正直なところ、冬はあまり好きではなかった。しかし、最近は、冬独特のピンと張りつめた、肌に少しぴりぴりくる空気だとか、吐き出した息の白さだとか、綺麗に瞬く星だとか、寒い中、暖かいものに触れたときのほっとする感じだとか…そういうものを含めて、意外と冬が好きかもしれないと思うようになった。冬を楽しむ余裕ができたのか、以前まで辛かった冬の登下校なども、今では逆に少し楽しかったりする。

今までも同じように冬に触れていた筈なのに、何故このような気持ちの変化が起きたのか自分でも不思議である。歳を重ねるとはこういうことなのだろうか。これからも訪れるだろう自分の変化が楽しみなような、少し怖いような妙な気持ちになった。

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