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センター試験の現代社会に「対抗文化」に関する設問があって軽い驚きを覚えたのですが,実際批判があるようですね。対抗文化は最近サブカルチャーやマイナーカルチャーとごっちゃにされてますが,カウンターカルチャー,文明を捨てることを掲げる場合もあるヒッピーが代表となるものです。
設問では尾崎豊の歌詞を「既存の秩序・体制を批判,新しい社会への原動力となる」として示しています。有名な盗んだバイクで走るアレです。そしてそれが対抗文化の性格であるという関連付けをして,なおかつ正答です。これに対し,カウンターカルチャーに異を唱える考えの人,保守的傾向の人々から反発があったようです。曰く,尾崎豊は歌詞などの性質上まだまだ公的な場の議論では一般でなく,かつそれを対抗文化として肯定的に捉えるのは主流の文化を毀損しうる,またそれを人々が広く受験する場で出題し,正解にするのは偏った思想を広めることになる,というものです。尾崎豊を対抗文化の一例としてあげるのが適切かどうか,その点はもちろん疑問があって当然かと思います。対抗文化はヒッピーから尾崎豊までカバーする概念なのかどうか。ただ,その批判,思想伝播を目的としている,というところは批判の側に疑問符を付けたいと思います。
社会一般に全く正しい解釈が為され得ないからこそ多数の主張がある,というのは今更書くほどのことでもありません(もちろん,それが為し得るという主張も含めて多数の主張があります)。今回尾崎豊の歌詞を対抗文化,そしてそれは世の変革の原動力,という見方があった。それは前衛的ではあるかもしれませんが,それが試験で使われることがあってもかまわないかと思います。「公共性が低いからこの論はダメだ」というのであれば,一般論,多数派,保守的論だけで試験を構成してもいいのでしょうか。この問題ならば「対抗文化は既存の文明を否定し,社会を混乱させうるものである」を正答とするとか。こうすると少数派から批判がきます。無視するのでしょうか。もしくはこの手には一切触れず,啓蒙思想あたりでお茶を濁しておく。これも一種の手ですが,そうしたら現社の存在意義から危うくなりますよね。
現代社会が捉えがたく,議論の中で進まざるを得ない以上,「現代社会」を銘打った広いテストで議論に上がる題材というのは逆にいい機会なのではないでしょうか。万人にいい顔した社会解釈などあり得ないという最初の話をはっきり示しますし。
蛇足ですが,これでさらに二次で「センターでこういう問題があり,こういう批判があったが,このことをどう捉えるか論述せよ」という問題でも出すとさらに効果的。まさに一次と二次です。残念ながら現社は万人が受けるものではないので,「偏った」問題になりますが。
しかしながらいざ探してみると、大体3種類ぐらいのサイトウさんしか見つからないのだった。多くの人が言うには、昔は別の漢字だったが、戸籍を新しく作るときにポピュラーなサイの字に変えてしまったのだという。変えてしまった理由は、ワープロであった。私が今使っているワープロソフトでは「斎」「斉」「齋」「齊」の4種類しか出てこない。やはり情報も電子で管理される時代、自分の名前がワープロで出せないのでは不便だったのだろう。
孝太郎電子化に際しても同じような苦労があった。ブラウザ上で縦書きを実現するためにいろいろ苦心したものだ(本当はadobeが使えるといいのですが…)。文化というものは思わぬところで簡単に失われてしまうのである。
冬と言えば、どちらかというと暗いイメージがある。いきものたちも、夏の勢い盛んな様子とはうってかわって静まり、あるいは死んでしまう。
それでは私のような人間はどうかというと、さぶいさぶいと言いながら外から帰ってきて、ストーブとか炬燵とかのお世話になる。先日風呂に入っていて気付いたのだが、風呂に入って一番ほっとするのは冬じゃあなかろうか。あたたかいお茶なりコーヒーなりを飲んだときのやすらぎみたいなものも、冬ならではのものとも言えそうである。厳しい寒さの中に居らされてこそ、ほっとすることができているようである。(最近はとても厳しい寒さとも言えないかもしれないけれど)。逆に、夏ともなると、いろんなことが騒がしいし、浮かれた心持になっていた気がする。
思えば、何かと騒々しい世の中だ。どうも、これまで多くのあたたかみを見過ごしてきたようだ、と静かな冷たい風に吹かれながら考えた。
今年は南南東らしく、福がやってくるように無言でかぶりつきました。豆も年の数だけ食べたし・・・数えプラス一個で。なんだか手のひらいっぱいに豆が転がっているのを見ると、年をとったなぁと年末に感じた、時の早さというものを思い出したりなんかします。
何度か私のバイトの話をしてきたと思います。塾講師のお話です。私は地下鉄と近鉄を利用していつもバイト先へ向かっているのですが、いつも移動時間は無駄だなぁと思っていたわけです。その場しのぎに本を読んだり音楽を聴いたりしていました。しかし、デイリー孝太郎で移動時間についての話を読んでからは、なんとなく自分の意識の変化を感じました。車内へ乗ってきた人が座ったとたんに本を開き、熱心に続きを読み始める。なんだかせわしないなぁと自分の時の流れを乱された感覚を覚えたのです。
時間は取り戻せない、とても貴重なものです。無駄な時間ほど「もったいない」と感じるものはないでしょう。しかし、「もったいない」と感じることはその人の主観的な部分の問題であり、強制することも制限することもできません。もちろん、本を開いたその人は移動時間とは無駄な時間なのでしょう。しかし、公共の場を私的な空間に変換しているように感じられてしまったのです。
世界に流れている時間をどう感じるかは主観的なものです。百人いたら百通りの時間があるのです。せわしない人と一緒にいたら、自分の時間が短くなってしまったように感じたり、のんびりな人と一緒にいたら、自分の時間が長くなったように感じたり。人の時間の感覚には影響力がありそうです。
本を読み出した人の時間の感覚は、無駄な時間を有効活用しようとするちょっとせっかちなものに感じられました。私の移動時間はせっかちさに影響されつつも、自分の時間の余裕に気付かされような気がします。
そして乗り換えのために車外に出たとき、あ、孝太郎更新できそうと感じたことは言うまでもありません。
最後に、今日は感じたものを言葉するのが難しくちぐはぐな文章になってしまい、申し訳ありませんでした。
節分にはきまって雪が降るような気がしていたが、今日は小雨が降っていた。
部屋の中に閉じこもっているとそんなことにも気付かないが、近所の神社でいろいろな行事があって、今年は家族で出かけた。
しかし、実は外にも出ずに、期末レポートを作成するに力を入れるべきだった。締切間近にならないと書き上げられずに、ぐだぐだとやってしまうのである。
ところで、講義というやつは、ひとつにつきせいぜい週に90分しかないものであって、半期あわせても20時間程である。考えてみれば、20時間話をきいただけで何か身に着くかと問われたときに、たくさん学べましたと自信を持って言える科目はほとんどない。やはりなんらかの時間外活動が求められるべきものであるだろうし、レポートというやつも、こういう観点から必要なものなのだといってもよい。むしろ、そう思ってやる方がよい、と言った方がいいのかもしれない。というのも、私の身の周りにも多くいるが、ネットで、テーマと関連していそうな記事を探して、見たものをそのままコピーして並べてレポートでございと提出する、あるいは誰かほかの人が作成したレポートを写して出して単位をもらう、というやり方をする者が多いようだからだ。
ネットで検索して…というやり方は、図書館で参考になりそうな文献を探し、読んで、…というやり方より、多くの場合早く手軽にすむけれども、その分見過ごすことも多かろう。当然、ネットは多いに活用すべきである。しかし多くの人がまだちゃんと利用する術を身につけていないのではないか。
そういえば、小学生のころ、イタリアを調べるのに、図書館へ足を運んで何冊も本を借りてきて、まとめて発表したことがあった。節分の思い出をたどっていった先に思いがけずそのことが浮かんできたのだが、これが発表や本の内容など、実によく記憶にのこっている。
数週間前から、大根葉の水栽培をしています。買ってきた丸ごとの大根の、葉のついていたところを5センチほど残して切り、水につけておくだけ。小学校の頃何かで読んで知って、祖母に頼んでやってもらって以来です。
最初は、もともとついていた葉の痕跡(薄黄緑)があるのみの状態でした。数日経っても見た目には変化がありません。5日ほどして、気になって触ってみると、痕跡、それも太いのがぱらっと取れました。高校生物を思い出しました。アブシシン酸の合成による離層の形成です。確か。その後、外側にある痕跡から順に崩れていきましたが、中央部の一回りだけは残りました。
そして、興味が薄れ始めた頃、3ミリ四方くらいの、ひときわ濃い緑の葉の一群が見られました。中央部に残っていた葉の痕跡の間から出てきていました。その後も葉はすくすくと(?)育ち、今では長いもので6~7センチくらいになっています。
中央部に残っていた痕跡は、新葉が3~4センチになったくらいのとき、外側と同じようにぽろっと取れました。新葉が強くなるまで、支えとなっていたようです。一昔前に「ど根性ダイコン」、アスファルトの端に育った大根が話題になりましたが、そう極端(文字通り)でなくても、生命力は眼を見張るものがあります。部屋にこれを置いているだけで、何やら頼もしいような気分になりました。
しかし、呑気なことばかり考えてはいられません。何故これを育てているか。食用です。もうすぐ収穫です。この危うい関係がなんとも生きていることを実感する手立てのようにも感じます。今、若芽を一枚摘んで、噛んでみました。柔らかで、素朴な苦味と、青くさい香りがしました。
まぁ大変、節分だというのに何の予定も入ってないわ!このままじゃ一人寂しく節分を過ごすことになっちゃう!…ということには、ならない。また、「おっ今日は節分だってのに残業かい。ご苦労さんだねえ。」「いやーどうせ予定なんか入ってなかったっすから、仕事入って安心したぐらいっすよ~」…とも、ならない。クリスマスじゃあるまいし。
しかしながらクリスマスと節分の間にあるこの隔たりは果たして合理的なものなのでしょうか?「今日は節分だろ?お前には鬼のお面を用意して待ってるかわいい子供たちがいるじゃないか。…帰ってやれよ」という人情派の上司がいてもよさそうなもの。しかしそういったドラマが現実に起こらないのは、やはり周りのみんなが節分をそれほど重く見ていないからです。こういった権威付けというのは一般大衆の流動的な嗜好に左右されるものです。周りがクリスマスで騒いでいるからこそ、独りでいることに引け目を感じる。そういった引け目のエネルギーがまたクリスマスの権威付けに寄与しているのです。案外この世の価値というものは総て相対的なものかもしれないなと、またしても私は脱力するのでした。