05 | 2025/06 | 07 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 |
8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 |
15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 |
22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 |
29 | 30 |
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
今年も桜が咲きました。「薔薇ノ木ニ 薔薇ノ花咲ク 何事ノ不思議無ケレド」の北原白秋の気持ちが分からないでもないなあ,と考えていました。何事の不思議無く今年も咲いていますけど,今年見た桜の多くが花びらではなく,花そのものがその前に散り落ちていました。つまり,5枚1セットの花,がくから上全部ががばっと落ちているんです。見られた方多いのではないでしょうか。
これまで案外気づかないところでした。桜といったら秒速50センチくらいで蛍が飛ぶようにはらはらと舞い落ちて,きれいだな,で済ますのが一般なのでしょうが,椿さながらがばっと花ひとつ落ちている,それも一つや二つではない。これは衝撃です。固定化された桜のイメージそのものに一石を投じられたかのようです。
もともとちゃんと見てもいなかったのだろうと思います。世の中に花見は多くても,花を見ている人はそう多くはありません。イメージ,偏見(,そして宴の席)を見ているわけです。桜とははらはら舞い散るばかりでもなく,ごっそり余情などなく落ちうるもの,そう知ってみると「桜って淡く舞うよね」などと呑気なこと言ってられません。椿を見るようなワイルドさがこもってきます。
私がこれを思いついたのは、電車の中、ポータブル音楽プレイヤーで音楽を聴きながら、窓の外をぼうっと眺めているとき。イヤフォンから流れる音楽を景色に貼り付けながら鑑賞しているかのような気分に囚われた。それは、楽譜を左から右へ読んでいく行為とも重なる印象があった。顧みるに、部屋に篭もってコンポで同じ音楽を何度も聴いていると次第に飽きてくるが、次々に移り変わる景色に音楽を投影しながら聴いていると、音楽の中に新しい発見をすることが多いように思われる。
芸術は「体験」である。作品に含まれる作者の表現などは案外比重の低いものだ。作品に一通りの解釈しか存在しないとすればそれはただの「情報」である。自分固有の芸術体験を大切にしていきたいものだ。
あの少し堅い雰囲気の中、毎回あまり代わり映えのしないように感じる話を聞きながら、立っているのはなかなかしんどく、正直なところ、式に対しては面倒くさいものという印象しかなかった。しかし、そんな面倒くさい、形式的な式も、自分にとっては大切な役割を果たしていたのかもしれない、と最近思うようになった。
大学には始業式、終業式というものがない。(少なくとも私の大学では行われない。) 各自が履修している科目の試験を全て終え次第、長期休暇に入り、授業開始日に再び登校する。夏休みもいつの間にか始まって、あっという間に終わり、冬休みも、学年が変わる前の春休みさえも同様だった。
以前は、春休みに対して次の学年への準備というイメージが強かったのに、今回の春休みはどうもそんな気がしなくて、何故だろうと思っていたのだか、最近、それは自分の気の持ちようが違い、新年度に向けてのあの一種張り詰めたような気持ちがないことが原因だと気付いた。気持ちの切り替えができていなかったのである。
始業式で、ああ、新年度が始まるなあ、終業式では、もう一年も終わりか、というように、私は自分自身の気持ちの切り替えのきっかけとして、意外と式というものを利用していたようだ。
人が生まれてから死ぬまで、自分自身の時間はどんどん流れていく。一日、一週間、一ヶ月、一年…時間に何処か区切りがあるように思えるのは、人がただ定めたからで、本当はただただ流れていくものなのだろう。
しかし、生まれてから死ぬまで目の前にただ膨大な時があると考えると、人は何をしていいかわからなくなったり、無気力になったりするのではないかと思う。きっと、気持ちの切り替えが必要だ。けれど、意外と自分だけで気持ちを切り替えるのは難しい。だから、一年後に向けてどうこうしようとか、あと十分たったら始めようとか、なにかしら区切りをつけ、その区切りをきっかけに、自分自身の気持ちを切り替えて、何かに向けての活力を手にしている部分もあるのではないだろうか。
四月になって、もう満開の桜を目にするようになった。勿論、始業式なんてものはないけれど、漂う春の空気をきっかけに、気持ちを新たにして、新年度も頑張ろうと思う。
バイオエタノール、バイオマスエタノールという耳慣れない言葉が巷に広まって、これは新しいエネルギーだと皆が手放しで賞賛したのは少し昔のことになった。今は多大なコストがかかるだとか、逆に環境破壊を引き起こすだとか様々な問題点があげられている。オレンジジュースも飲めなくなるのかな。これからバイオエタノールはどういう風に私たちに関わってくるのだろうか、批判を考慮したバイオエタノールに関する一段階上の利用法は見つからないのかな。とぼんやりと考えていた時に、ふと頭を過ぎった事を書こう。
これは改めて考えることもないような、当たり前の事実なのだけれど。文化であれ技術であれ、物事を受け容れるまでのプロセスは、賞賛・許容→批判・反発→受容という順序で成り立っている。新しいものを取り入れる際に起こる現象としては当然のことだろう。例えば、幕末開国期の日本において開国に反発した攘夷派が、最終的には西洋文明の利点を受け入れそして利用したように。文学のジャンルの変遷も反発が大きな転換を示していて、このプロセスに通じる部分があるかもしれないと、思っている。もちろんこれらはこじつけに見えるだろう。事実、私はこじつけた。
なぜならすべての現象にA対Bという単純な構図があるわけではなくて、政治的な意図や思いもよらない偶然や他のものとの関連といった多様な要素が絡み合っていることは間違いないからだ。
ただ賞賛・許容→批判・反発→受容の形に「こじつけること」こそが大切なのではと私は思っている。それは正・反・合の弁証法のように、あるものとそれに矛盾するもの双方を考えることで一段階上のあるものその2を作るよう心がけることだ。
ここでいう「受容」は「消化」と変換しよう。そうして「鵜呑み」との差異を強調したい。私の中に新しく舞い込んできたAを、「これが皆の言うAか。ではここ(頭)にしまっておこう。」とはしたくないのだ。理想はAに「本当にそれがAなのか?Aはしまってもよいものなのか?そもそもAとは何なのか?対立概念Bとはどういう関係なのか?」としまってしまう前に問いただしたい。そうしてAを「真のA」に近づけてから、存分にAを味わいたいものである。できれば結果的に、消化を経て私なりのAを確立させたい。
なんだか懐疑的な人間を作り上げそうな理想だが、自分のものにして受け容れることは有用だ。この消化のプロセスは、許されないものを高い次元で再構築する思考と、許すべきものを受け容れる心の広さを与えてくれるのだから。これからは人や学問を含め新たな世界に接する機会が多くなりそうだ。ぼんやりしている私はあっという間に情報の海に流されてしまいそうなので、「消化のプロセス」を意識したい。
大江山いくのの道の遠ければ まだふみも見ず天橋立
先日、天橋立へ行ってきた。だが天候と体調が悪かったため、実際天橋立を見ることも歩き回ることもしていない。全く、若い身空で何てだらしがないんだ、日本三景だぞ天橋立は、とお思いの方もいらっしゃることだろう。全くその通りなので、私は何も申し開き出来ない。
結局、そこで唯一私が見たものと言えば、なんと砂州と陸地の繋がっていない、僅かな海間だけであった。
そこは一見、ただの水路にも見えるような場所であるが、さすがに海、クラゲがいた。白く半透明なやつらがプラプラ浮かんでいるところを見ると、あぁ私もああいう風になりたい、とかわけの分からないことを思ったりして、なんだかちょっとブルーになった。
けれど暫くして、私はやつらのうちの一匹が、ペラペラになって死んでいこうとしているのを見つけた。彼は最早、水面に浮かぶビニールみたいになってしまっているのだが、それでも一部、収縮活動をしている。あぁ、彼のクラゲもご寿命なのかな、と私が思っていたところへ、ふと顔を上げるとモーターボートが、ぶぉぉぉんっと目の前を走り去っていくところだった。左から右へ。そして少したって、右から左へ。
うわあ私も乗りたいかも―、と思ったが次の瞬間、クラゲってモーターボートで死んじゃうんじゃないのかな、とふと思った。彼のクラゲが陽に当たろうと水面をプラプラしてたところ、逃げるよりも先にモーターボートにひかれて、そして今死にゆくところなのだったら?そう思うと、少し申し訳ないなと思った。車にひかれる犬や猫と一緒で、弱肉強食の為にでも、まして寿命の為にでもなく無駄に殺されるというのは、これは世の無常ではなくただの人の理不尽である。
とは言え、死にゆくクラゲを前にして私はぼんやりとそのようなことを思ったのみで、あとはさっさと車に戻ってしまった。寒かったし体が重かったから。ついでに言うと、無常も理不尽の一種であるから。
はい、京都に帰ってきた月曜日担当者です。
実は私、3月をもちましてデイリー孝太郎を去ろうと思います。
ほんの少しの間でしたが、孝太郎を形作る一人として活動できたこと、嬉しく思っています。
今までありがとうございました!
さて、先週お話していた温泉旅行ですが、そこで松尾芭蕉の句を発見いたしました。
旅人と
我名呼ばれん
初しぐれ
時雨とは冬の季語で、秋の終わりから冬の初めに降る雨のことです。
きっと芭蕉もこの地に温泉旅行に来ていたのでしょう。
私たちが巡った温泉につかってなごんだりしていたかもしれません。
自分のことを知らない場所で芭蕉は何を考えていたのでしょうか?
旅人の良さを感じたのか、寂しさを感じたのか。
誰にも知られていない世界とは自由でもありますが、とても寂しいものです。
匿名性のあるデイリー孝太郎も自由がゆえに悩むこともありました。
私もまた旅人です。
そして私にとってみなさんも旅人です。
明日からもデイリー孝太郎は続いて行きます。
温泉地に旅人が絶えぬように、孝太郎の湧き上がる力はたくさんの人々を魅了していくでしょう。
みなさんは旅人になりたいと思うことはありませんか?
雨音を聞きながらお別れです。
また会う日まで。。。
クラシックならともかく、その他の、マイクとかスピーカとかを使ってやるコンサートとかライブとかというのは、演奏者の生の声あるいは演奏される楽器の生の音じゃなくて機械から出た音を聞いてる訳で、ライブはライブかもしれないけど、ほんとにライブなのか、それは集団DVD鑑賞会とどう違うのか、という疑問が、ときどき沸き起こってきていた。
で、当然、みんなでビデオをみたりCDをきいたりするのと、機械をとおしてはいても、そこにアーティストがいて歌ったり弾いたりしているのを見て聞くのとは違うのだが、違うなぁとは思ってもそれがどういうことなのかよく考えが至らないでいた。
一番、はっきり何が違うかと言えば、一方は「まだこれから起こること」であるのに対して他方は「僕はまだ知らないけどもう起っちゃってること」であるということになるのではないか。アーティストがそこに、目の前にいるという事実が重要なのではないか、と以前は思っていたが、生中継で放送される番組とか、それが舞台上のスクリーンに映し出されていてそれをみんなでみるとか、そういう聴き方は、DVDか「ライブ」か、でいえば、どちらかというと「ライブ」に近いように思うので、どうも本質はそこではないようだな、と感じたのである。
同じコンサートのCDを何度も聴く、観るのは、普通にある話だが、このとき聞いている、見ているものは、実は本物とは違うもの、自分の中で熟成された、自分によってどんどん塗り替えられるもの。
ライブは生きる、生命ということとつながっていて、人を動かす。CDという便利なものがあるのに、人々がわざわざライブを聴きにいく、観に行くのは、本能的にそういう性質のものを求めているからではないか。