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 恥ずかしながら「手前味噌」という言葉の意味用法を私が覚えたのは、多分ここ一年ぐらいのことである。
 理由としては、「手前味噌になりますが~」といって人が語り出した内容は、件の前置きが無くても文脈的にすっきり通るため、どういう意味か調べてみようとあまり思わなかったから。仮に思って、調べたとて、「自分で自分のことをほめること。自慢。」などと辞書には載っているので、ほな自慢でええやん、と考えて頭に入れるのを拒否していたのだと思う。
 ところが最近、この言葉が使えるようになってきた。別に自慢できることが増えたわけでもない。それでもこの言葉の真価に気がつきはじめた。
 「自慢になりますが~」で話してしまうと、話し手としては「自慢ですが」と言うことで印象をマイルドにしたいと思いつつも、そこに一抹の厚かましさというかいやらしさ(そんなにマイルドにしてまで自慢したいのか、図々しい。)を感じられては居ないだろうかというジレンマに陥ってしまうし(私が気にしすぎなのだろうか?)、聞き手だってやはり「自慢を垂れているなあ」と思って聞いてしまうだろう。一般的にそういうものだろう。「少々言葉はきつくなるが」と前置きされた話はすごくきつくなるし、「不謹慎かも知れないが」と前置きされた話は大方すごく不謹慎だ。
 しかし、日常会話において、或る自分に関する事柄を提示しなければ話が進まない、といったときに、自慢することが主目的では無いのに、結果としてそれが自慢になってしまう、というのはよくあることだ。そんなときに「手前味噌ですが」を使うと、「自慢するつもりで言うんじゃないんですけどね」というインプリシットがあるように思うのだ。
 そもそも味噌は調味料であって、現代の我々の観念ではあまり自慢するようなものではない。それでも慣用的に、味噌の話をすると自慢することになってしまうので、手前味噌になってはしまいますが、一応味噌の話をさせていただきますよー、という感じ。慣用句特有の、現代感覚とのズレが、逆にうまく効いて、この言葉に貴重な価値を与えているのだと思う。
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 いつからか、私の家の勝手口のドアに、ヤモリが棲みついている。ヤモリは、日本では、昔から家に棲みついて、害虫等を食べてくれることから「家守」とも書かれることを知っていたので、追い払うこともせずに放っておいたところ、毎年、夏が近くなってくると、いつの間にか勝手口のドアに張り付くようになった。当初、勝手口のすりガラス越しに見える、張り付いたヤモリのお腹などは、非常に気味の悪いものだったのだが、時間が経つと共に、不思議と愛着が湧いてくるもので、私の家では「ヤモちゃん」の愛称で呼ばれている。
 さて、すっかり私の家族に馴染みつつある「ヤモちゃん」だが、実のところ、どのような生物なのか、あまり知らない。そもそも、毎年「ヤモちゃん」と呼んでいるヤモリは、果たして同一のヤモリなのだろうか。
 調べてみたところ、「ヤモちゃん」の正式名称はニホンヤモリというらしい。夜行性で、昼間は、家の戸袋等の隙間を住処にしており、日が暮れる頃になると、灯りに集まる虫を狙って出てくる。冬になると姿を見せなくなるので、冬眠しているのかと思っていたが、もともと南方系の生物なので、どうやら冬眠はせずに、家の戸袋などの温度が一定した所で冬をやり過ごしているようだ。(ちなみに、南方系の生物といったが、もともとは、日本には分布していなかった生物だと言われている。過去に大陸から運ばれてきた木材などにくっついて日本に渡ってきたというのが、通説なのだそうだ。)
 気になっていた寿命だが、大体3~5年のようだ。確か、初めて「ヤモちゃん」のことを目にしたのが、高校1年くらいのときだったから、今、勝手口に張り付いているのは、同一のヤモリか、もしくは2代目「ヤモちゃん」といったところだろう。

 先ほど、冷蔵庫に水を取りにいったら、今年も「ヤモちゃん」が張り付いていた。いつの間にやら、丸々と太って大きくなったその姿は、再び、少々の気味悪さを感じさせる。
 夏ももうすぐだ。

Present for you

 

「贈与」という行為について、先日授業で習った。古くから他人に贈る物や贈る行為には、人間の魂が乗っかっているとされてきた。それゆえに、われわれは「お返しをせなアカン(=互酬性)」と感じるわけである。また、死者の埋葬の際に財物を供えたり、一緒に棺に入れたりするという行為にもその性質が見て取れるという。

 

しかし、キリスト教が主流の西欧社会では死者を生きているかの如く扱うことはしないため、世界史のわりと早い時期からそういった供え物の類が成されなくなった。また、一般の贈与(プレゼントをあげたりだとか)の基盤は、人道精神・愛情なのだからお返しは不要だという考えが通説になった。他には中世に盛んになった教会への寄進(=これは見返りを求めていない贈与)の影響も多大にあり、結果西洋には贈与を受けた際の「お返しをせなアカン」精神が発達しなかったそうだ。

 

逆に日本の(東洋の)その「お返し」精神は、封建社会(御恩と奉公etc)との関わりが強かっただの、それは契約の概念から生じただの様々に言われている。(らしい)

 

学説がどうであれ、現代の私たちもやっぱり何かを貰えば「お返しをせなアカン」と当たり前のように感じるは事実だ。西洋でその感覚が薄いと聞いて、なんだかびっくりしたくらいだ。「義理」だとか「恩」だとかはあまに日常的には使わなくなったが、「お返し」精神は連綿と続いている。確かに「お返し」も度が過ぎると良くない。本来の歓送迎会・忘新年会の意味を失った宴会のやりすぎ、形式化した中元歳暮、何割以上と決まったお祝い返しや香典返し・・・「贈与」についてのなんだか不思議な慣習は数多くある。けれど、何かを貰ったときやしてもらったとき「これは相手の好意だから」といってただ貰うだけでなく、「お返しをせなアカン」と反射的に感じてしまう方がよっぽど人間臭くて、私は好きだ。自分が尊大になっていたら「ありがとう」なんて気持ちは、すぐに忘れ去ってしまうものだ。いつも私たちに「ありがとう」と思い出させてくれる、その役割だけでも「お返し」精神の存在価値は十分にあるだろう、そう思った。
 最近暑い日が続き、日も長くなっている。もうじき夏である。そろそろ、夏の匂いがしてもよい頃だ。
  夏は夏の匂いがする。冬は冬の匂いがする。これは、筆者にしか分からないのかも知れないし、思いのほか多くの人が思っていることかも知れない。夏は、開放感あふれる、紺色の夜空と夏草と冷奴の風が流れる。冬は、せまい空間の中で、ぴんと張った空気にガスファンヒーターの匂いが混ざった、周りが寒いが故 の温かさをもった空気が充満する。どちらが良い悪いというわけでなく、ただ、その匂いを感じて季節の到来を肌で知った時の、幸せな気持ちをもたらしてくれる。
  古くから日本人はそうだったのだろう。季節の変化に富んでいるこの島国で、春夏秋冬それぞれの季語を体感することによって、季節それぞれを楽しみ、憂い、心を震わす。もしかすると、今、過去の火鉢はファンヒーターかもしれない。もしかすると、過去の扇がうちわかもしれない。ひょっとすると逆に、空に浮 かぶ夏の星座は、ほとんど全く同じかもしれない。けれどそんなことよりも、人々が季節の匂いにふと立ち止まるのは、今も昔も、季節が巡る限り、きっと変わらないであろう。豊かな四季のある島国で、人々はこれからも四季に心動かされる、どうかそうあってほしいと思う、筆者なのでした。

象徴の帝国

 

 昨日、京都観世会五月例会を観に行った。映像では幾度か見たことがあっても、能を生で観るのは初めてで、大変良い経験になった。

 午前十時半から午後四時までという長丁場で、能が三演目、狂言が一演目、仕舞が三つという構成だった。能は「敦盛」、「隅田川」および「鵜飼」で、狂言は「千鳥」が上演された。

 まず、とても長いと感じた。「敦盛」は、熊谷直実に討たれた平敦盛が出家した直実の前にいろいろなかたちで現れる話。「隅田川」は子を失った狂女が塚の前で祈ると子どもの幽霊が出てくる話。「鵜飼」は鵜を遣ってたくさんの魚を殺した鵜飼が法華経の力で救われるという話である。ずいぶん荒削りの要約だが、実際ストーリーとしてはいずれもこの程度である。図書館で借りた謡曲集を見ても、それぞれ10ページそこそこの分量にすぎない。しかし、能の一演目は一時間以上かけて演じられる。単純な筋の中に色とりどりの要素が巧みに組み込まれていることの証拠である。謡・囃子・舞……。これらが絡み合って錦織のような芸術が完成しているのだ。

 そして、なによりも、とても抽象的な舞台だった。象徴的と言っても良い。戦闘シーン、舟中のシーン、地獄のシーンなどがあったが、当然ながら手に持つ小道具以外の舞台装置はほとんどない。演者は「かくかくしかじかのシーンだと思え」というメッセージを動きや音楽を通して観客に発信し、客は自らの努力で「かくかくしかじかのシーンだ」と思わなければならない。そういう意味では、観客にとって能という芸能は、積極的に参加できるものであるし、また同時に積極参加を余儀なくさせられるものであるといえるだろう。

 そんなわけで、時間はゆっくりと流れたが、頭をよくつかった一日だった。その中で、幕間の狂言は、肩の力を抜いて楽しむことが出来た。小中高の「狂言教室」などで単独に狂言を観たときよりも「おもしろい」と感じた。高雅な能の合間に演じられるときこそ狂言はその本当のおもしろみを発揮するのかもしれない。

 まず,担当曜日に遅れてしまっていることをお詫びいたします。土曜担当です。

 

 この前見つけたことです。大学の食堂では食料調達の後,箸やスプーンなどをセルフで用意しますが,箸に赤というか臙脂色のものと,暗めの青のものとがあるのですが,明らかに臙脂色が早く減り,最後には青しか残っていないのが,毎日の状態です。

 

 ファストフードも基本的に赤い看板ですが,食欲を喚起するのは暖色のものというのが,もはや通説という感じでしょうか。皿などに暖色を取り入れるのは聞いたことがありましたが,箸のようなところにまで差が出るというのが興味深い点でした。最初から青の箸なんて用意するなよ,とも逆に思いますが。

 

 色の心理効果はもう有名な分野になっていますが,何か血液型占いと同レベルの解釈も少なからず出回っているように思います。黒が好きな人間はどうこう,っていうやつですね。筆者は黒が好きなので,そういい思いをしてきませんでしたが。色の効果は事実としてある以上,自分の信用できる範囲で使っていけたらいいのだろうなと感じます。あと,たとえ事実としても,カラーリングさえ整っていればストレスのない暮らしができるかのように錯覚させる紹介も少なくないですしね。

 

 白地に黒文字の文章がもし堅苦しいとか無味乾燥と感じるならば,ちょっと色合いを暖色系にしてみようかなあ,と思いましたが,遅れて出しておいてそういう実験的なことをしても迷惑をかけるだろうので,自粛いたしました。

先週のをご参考に。

「な」…「た」に似ているが破裂音ではなく鼻音とされる。理由は発音の際に鼻から空気が漏れるから。ほんまかいなと思って鼻をつまんで「な」と発音してみると限りなく「だ」に近い音が出る。

「ま」…調音位置が両唇となる鼻音。

懸命なる読者諸君は気づいているはずだが、私は「は」をとばした。それは意図的なものである。
「は」を抜いたここまでの音を発音してみよう。「あかさたなま」。調音点が喉の奥から唇に向かって前進してきているのがわかる。
また、調音点が同じ場合には(といっても例は一つしかないが)、摩擦音→破裂音→鼻音と、薄い印象の音から濃い印象の音(これは私の主観的な形容である)へ遷っている。
以上の法則性から「は」の位置に来るべき音は「ふぁ」もしくは「ぱ」であることがわかる。
そして、実際ほかの証拠からも、昔の日本では「は」という文字を[pa](一時期は[fa])と発音していたことがわかっているらしい。かくして五十音図は美しい合理性を得るのである。「あかさたなぱま」。発音していても気持ちがよい。

ちなみに残りの「やらわ」は、半母音的な子音を調音点順に並べているものである。詳しい解説はいらないだろう。
喉の奥から口の先、そして半母音という順番は中国やさらにはインドに由来しているらしい。たかが五十音図といえどなかなか奥が深い。

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