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孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
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 明治時代の教育の始まりは西洋のカリキュラムをそのまま用いたため,「檸檬色」のような子どもはおろか先生まで実感が伴わない,つまり生活とはかけ離れた内容が頻出していたそうです。もちろんその字は書けるようになりますが,だからといって檸檬も檸檬色も実際は分からないわけです。

 

 バイトで塾講師をしていると,教え子たちの知らない言葉の多さに驚くことがしばしばあります。ある中学生に国語を教えた際ですが,熟語の読みを扱う中で「忌引」「厄年」「盆」(ずいぶん抹香臭い言葉ばかりですいません),その他「名残」「悲哀」などが“全く初めて見る単語”として意味を尋ねられたのでした。抹香臭いシリーズはその文化に触れているか否かですけれども,「悲」「哀」の言葉を組み合わせた「悲哀」などは想像くらいしてよ,と言う感じでした。

 

 彼にしたら,江戸時代から明治時代への移行期に「檸檬」が分からなかった人々と同様,生活の中にそれらの言葉は組み込まれていないわけです。たとえ漢字そのものから類推できるものであっても,その思考の枝は伸びてはいかない。

 

 単に読み方の問題や書き方の問題の中でいきなり上記のような言葉を脈絡も示さずに持ってくる教科書にも罪はあるように思います。しかし彼は,彼が触れてこなかった身近な言葉の世界には全く疎遠なわけで,なんだかもったいないなと感じました。かく言う私も修行中の身,もったいない思いをずっとしていることでしょうが。

 

自分の知らない言葉を身に付けていくことは一生続く修練の一つと考えています。思考の枝を伸ばしていくには言葉を得続けないといけない。新語,流行語の類をより獲得していくものと並行してこういった素養も補強していきたいと改めて感じました。

 

檸檬が分からなかった人々も,そういった新しい言葉を獲得していくことと,同時にそれらの使用をそれまでの言葉の中に組み込んだことで知恵を作ってきたわけです。

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 ヨーロッパの神話の中にも度々現れることから分かるように酒と人間との関わりの歴史は非常に古い。長らく人間は酒を愛し、酒に振り回されてきた。人間の歴史は酒による支配の歴史とまで言われるくらいである。
 なぜ人間は酒を飲むのだろうか。人間が酒に求めているのは酔いである。酔うことで人間は普段の苦労を忘れ束の間の自由を手にすることができる。酔いが回ると大体の人間は普段と比べおかしな言動をとり、状況の正確な判断ができなくなる。理性が失われるということである。しかしながら酔うと共に妙に頭が回り饒舌になる人間もいるという。最近話題となった酔いどれ大臣もその類いであり、普段はできないような黒い話題もできるようになると聞いた(彼の場合はそれが度を過ぎていたようであるが)。そうした話も含めると、酔いが回ると人間は大胆になるとも言える。社会生活を営む上で人間を縛る、様々なものに対する知的な配慮が酔いによって失われ、人間は自由になってしまうのである。酔う前と後の人間の様子の違いは、ある意味知的な配慮をすることによる人間の負担の重さを示している。
 酒と共によく並べられるのがタバコであるが、本質はかなり違うものであると思う。にわか仕込みの知識であるが、タバコは吸えば吸うほど脳内活動を変化させる。そしてやがてはタバコを吸うことによって脳に現れる物質が、身体の通常の状態を維持するのに欠かせなくなる。いわゆるタバコ依存症に陥る。身体の機能はタバコによって大きく縛られるのである。
 またタバコは人の容貌にも影響を及ぼす。以前姉妹のうち一方のみタバコを吸う双子を比較した写真を見たが、タバコを吸う方は吸わない方と比べ皺や肌のたるみが明らかにひどかった。主観的な見方になるが、その顔にはタバコがよく似合う。タバコは人間の容貌さえも、タバコなしではいられなくしてしまうのではないかとまで感じたものである。
 このように酒は人間を自由にする一方タバコは人間を縛るものと見ることもできる。だから私はタバコは吸わない。もっとも酒もあまり飲みたくないのだが。
  「文字通り」という言葉について、思うところがありました。
 なんとなれば、例えば「一日中走り回って文字通りへとへとだ」などと言っている人がいた場合、「君、それは『文字通り』という言葉をうまく使えていない。修飾される言葉に額面通り以上の意味が含まれてしまいそうな場合にのみ『文字通り』は有効なのだよ。単なる強調表現とは違う。」と諭してあげたい気持ちにいつも駆られていたのでした。つまり、慣用句を使うときにその構成要素そのものの語義を際だたせたいときに、「私はグルメリポーターを生業としておりますが、最近仕事が減って、文字通り飯の食い上げなのです(笑)」などとうまいこと言うために、「文字通り」という言葉があるものと思っていたのです。ところが、
 大辞林で調べてみましたら、別にそういうわけでもなく、「文字に記したとおり。少しもうそや誇張のないさまにいう。」とあって、例文には「文字通り一文なしだ」と書いてありました。思ってたのと違って、軽度に落胆しましたが、私の用法が否定されたわけでもないので、私としては向後も私の用法でこの言葉を使っていきたいと思います。はい。
 ところで先日、何かニュースだったでしょうか、「文字通りくの字になって寝る」とかいう表現に出会いましてはっとしました。「文字通り」という言葉自体も、「文字」という言葉を「本来の語義」という意味で曲げて使っているのであり、上記の例文では、「く」というのは確かに文字でありますし、まさに文字通りの「文字通り」、メタ文字通りであるなあと思って笑いました。おわり。

私はケーキ屋でアルバイトをしているのだが、よくデコレーションケーキにつけるメッセージを書くように頼まれる。普段は「お誕生日おめでとう」だとか「結婚記念日おめでとう」といった内容が中心だ。毎日誰かの誕生日や記念日がめぐってきて、まるで日課のように私は祝いの言葉を記していた。忙しい時だとなぜ祝い事にはケーキが必須なのかと問いたくもなる。

雛祭りの季節も例外ではなく、人々はちらし寿司やお吸い物では事足りず、桃色のケーキを買いに来る。日本独自の文化にもやはりケーキで祝うのかと、不思議な気持ちになりながらも私は手際よく次々にケーキを包んでいた。そのとき、記念日のメッセージのなかにひときわ目を引くものがあった。――「○○ちゃん、初節句おめでとう。」それはいつも書いているメッセージとなんら変わりの無いものだった。なのに、私の脳裏にはふわふわと遠い記憶が広がったのだ。きらびやかな雛壇の前には親戚や家族があつまり――その中にはもう二度と会えない人も混じっているが――私は今にも笑顔が蕩けてしまいそうな温かい雰囲気の中に囲まれている。言葉にはせずともあふれている健やかであれという願い。そこにあったのはケーキだったろうか、蛤の吸い物だったろうか、覚えてはいない。そもそも私自身に初節句の記憶が無いのだが、ひしと感じられるこの満たされた気持ちは確かなものだった。「おめでとう」のことばにこめられたあたたかな思い。きっとあのケーキを持ち帰った人もわが子(わが孫?)の成長を願い、今はそんな空気を楽しんでいるに違いない。

最近では何かにつけで文化の形骸化が叫ばれるが、その文化の形(カタ)につと寄り添う人々の心こそ文化の裏打ちだと思う。そしてもちろん初節句だけではない、誕生日も記念日もこんなあたたかな気持ちで溢れている特別な日なのだ。そんな特別な日にいつも関わっていられる自分はある意味で幸せ者なのかもしれない。そういえば去年母親になった友達が今年雛人形を買ったと言っていた、来年は私も彼らを薄暗い押入れに閉じ込めておくわけにはいかないなという気持ちになった。

追伸:月日の流れははやいもので、おかげさまで私ももう成人しました。次の桃の季節には、お久しぶりにお目にかかれると思います。

〈陸〉『孝太郎』から遠く離れて

 

 

“『孝太郎』から遠く離れて”というタイトルに、私はふたつの思いを込める。ひとつは、『孝太郎』からいったん距離を置き、全体像を客観的に分析することによって、今後〈孝太郎〉とどのように向かい合っていくべきかを考えたいという思いである。もうひとつは、親元を離れ、自立してゆく子どもの心境である。『孝太郎』という表現・交流媒体をきっかけにして、少しずつ独自の表現活動を展開していこうという意気込みである。前章までにおいて、私は主にひとつめの点について詳しく述べてきた。この章では、ふたつめの点について、私の現時点での考えを述べておこうと思う。すなわち、これから書くことは、私自身についてである。

 

 私は、大学で哲学を学ぶつもりである。一口に哲学といっても、人生論から国家論・宇宙論まで幅広いが、私のテーマは「〈こころ〉の本質、〈ことば〉の本質、およびそれらの相互関係」である。いま「テーマ」という語を用いたが、厳密には「糸口」とか「きっかけ」と言った方がよい。哲学の理想的な体系は、限定的な事象のみならず、世の中の森羅万象に当てはまるはずだからである。私も、哲学を学び、哲学を行う限りにおいては、〈すべて〉を説明しうる体系の構築を目指す覚悟を持っている。ただ、どの問題を重要視するか、何を突破口とするかは人それぞれ異なっていてしかるべきであり、私の場合は〈こころ〉と〈ことば〉の問題を最も強調することになるので、それを「テーマ」と言ったまでである。

 

 〈ことば〉に関しては、私は中学・高校時代から非常に強い関心を抱いていた。〈ことば〉で何かが伝わるのはなぜか。伝わらないのはなぜか。〈ことば〉を超える表現はあるのか。〈ことば〉を〈ことば〉で説明することに限界はないのか。疑問は尽きなかった。ひとつひとつの疑問を解決すべく、参考になりそうな本をいくつも読んだ。部屋にこもって考え込んだりもした。ある程度の答えを見いだせることもあったが、その多くは今も疑問符のまま頭の中に残る。なかなか一筋縄ではいかない問題が多いけれど、しかし人の世が〈ことば〉によって動いていることは疑いない事実である。特に現代は「情報化社会」と言われ、その〈情報〉の多くは〈ことば〉である。〈ことば〉に対する哲学的考察は、私の興味の範囲のみならず、社会的需要という観点から見ても、力と時間を費やすに値する重要なテーマだと思う。

 

 哲学には「言語哲学」という分野が現存するが、別に私はそれにこだわるつもりはない。「言語哲学」は、現代哲学に限って言えば、ウィトゲンシュタインを源流とし、海を渡ってクワインらへとつながる一系譜である。「言語哲学をやる」という風に決めてしまうと、彼らの流れを学び、その延長線を描く仕事を担うべきだという錯覚に陥ってしまうのではないか、と私は恐れるのである。もちろん「言語哲学」の思想は大いに参照することになるであろうが、それは自分なりの〈哲学〉を推し進める過程でしかない。

 

 〈こころ〉の問題に関しては、生物学者・小林茂夫との出会いを語らなければならない。私は、2008年度の前期に受講した「生体情報論」という科目で、小林本人およびその思想と初めて出会った。それは私にとって極めて衝撃的な事件であった。以後、私は小林研究室に頻繁に通うようになり、数人の仲間とともに〈こころ〉について熱い議論を続けることになる。

 

小林の提唱する〈こころ〉に関する説を、私は勝手に「小林細胞主義」と名付けている。以下、その概要を紹介したいと思う。小林は私の恩師であるから、本来ならば敬称を付するべきであるが、ここではあくまでもひとりの学者として話題にするため、あらゆる敬称を略することにする。

 

〈こころ〉という語の指す範囲がまず問題になるが、とりあえずは〈感覚〉および〈意識〉のことだと考えておけばよい。〈こころ〉の話になると、〈無意識〉とか〈夢〉などといったややこしい概念を挙げたがる人も多いが、そうした概念は〈感覚〉および〈意識〉の基本的な仕組みが解明されてはじめてその上に成り立つものであって、まず我々が手つけねばならないのは「熱い」「痛い」といった単純な感覚のメカニズムなのである。

 

ところでいま私は「熱い」という〈ことば〉を使って感覚を表現した。これは生物学にとっては大きな障害である。我々ヒトは熱湯に手を入れたとき、そこで得られた感覚に対して「熱い」という〈ことば〉を当てはめ、表現することができる。ところがたとえばイヌにはそれができない。彼らが〈ことば〉を持っていないがためである。このことから、「イヌは「熱い」とは思わない」というもっともな理屈が生じる。しかし、我々が「熱い」と表現するようななんらかの〈感覚〉は、おそらく熱湯を浴びたイヌにも発生するはずなのである。そこで、ヒトが「○○」と感ずるような感覚が、ヒト以外の生物において生ずる場合、それを英文式の一重引用符を用いて‘○○’と書くことにする。熱湯を浴びたイヌは‘熱い’と思うし、餌にありついたネズミは‘おいしい’と感ずる。

 

さて、ここで根本的な問題に立ち返るが、生物とは何だろうか。さまざま異論はあるだろうが、生物は「自己を保存する」という重要な性質を持っている。小林は、生物を考える上で、この点を最も重視する。生物が自己を保存するということは、保存されるところの〈自己〉なるものが存在しているということである。そして、生命の歴史は原初より途切れることなく現在に至っているのであるから、同じ意味で〈自己〉なるものは生命誕生の原初より途切れることなく存在し続けているということになる。したがって、例えばゾウリムシのような単細胞生物にも、〈自己〉なる概念は間違いなく適応されうるのである。

 

〈自己〉が存在するということは、‘自分は自分である’という最も基本的な意識があらゆる生物には備わっているということである。保存すべき〈自己〉について自ら分かっていなければ、個体は〈自己〉を保存すべく努力することができないからである。これこそが〈こころ〉の本質ではなかろうか。小林は、それゆえ、「ゾウリムシにも〈こころ〉がある」と断言する。小林細胞主義はこの大前提から始まるのである。

 

 生物が〈自己〉を保存するためには、さまざまな活動が必要である。そのうち最も重要なふたつが、餌を食べることと、快適な環境に身を置くことである。なによりもまず‘おいしい’餌を食べ、‘こわい’敵から逃れなければならない。生物は、周囲の刺激から発生したさまざまな〈感覚〉をもとに、自らの行動を決定するのである。

 

 そしてもうふたつ、小林細胞主義を語るための前提がある。ひとつは、「〈こころ〉は脳で生まれている」ということ、もうひとつは「〈こころ〉は力と同様、二種類のたんぱく質の結合によって生み出される」ということである。ひとつめは現代では当たり前になった見解であるが、ふたつめは生物学的には極めて異端的な考え方である。ミオシンとアクチンという二種類のたんぱく質が結合し、そこにATPが加わることによって力が発生するように、一部の脳細胞の中には〈こころ〉を生み出すような二種類のたんぱく質が存在しているに違いない。これが小林の仮説である。そしてこれらのたんぱく質を含み、〈こころ〉を生み出す働きを担っている特別な細胞を、小林は「自己細胞」と呼ぶ。ヒトの脳のどこで〈こころ〉が生まれているかを特定するには、この「自己細胞」取り出して調べればよいということになる。ところが、ヒトの脳は膨大な数の神経細胞およびグリア細胞のかたまりであり、「自己細胞」を手作業で特定することはほぼ不可能に近い。そこで小林はゾウリムシなどの単細胞生物に注目したのである。単細胞ならば、それ自身が「自己細胞」であるはずである。ということは、〈こころ〉を生み出す物質は、その数十ミクロンの閉ざされた世界の中に必ず存在するに違いない、ということになる。この思い切りのよさが細胞主義の魅力だ。

 

 小林研究室では、現在、「自己たんぱく」の特定作業が進んでいる。ゾウリムシや、より動きの活発なユープロテスといった単細胞生物にさまざまな薬品を投与し、たんぱく質のラベルになる物質を探している。「自己たんぱく」が特定されれば、そのもとになる遺伝子を知ることは簡単だ。遺伝子が分かればその部分をノックアウトしたゾウリムシやラット、すなわち「〈こころ〉を持たない生物」を設計することが可能になる。そうなれば、それらのゾンビ生物がどのような行動を見せるのか、はたまた生物として機能しないのか、という点に注目が集まることになろう。もちろん研究の過程はもっと複雑で困難なものになるであろうが、いずれにせよ、小林細胞主義は、このように夢と恐ろしさを兼ね備えたとてつもない魅力を秘めているのだ。

 

 小林細胞主義は、従来の脳科学では一切明らかにされてこなかった〈こころ〉の仕組みそのものに迫ろうとしている。もし実験によってその正しさが証明されれば、生物学だけでなく、哲学にとっても大きな価値がある。名だたる哲学者たちが、神や精霊や絶対理性を持ち出して説明を試みた〈こころ〉というものの実体が、非常に明快に示されるからである。ただし、問題の全面解決にはさらなる哲学的努力が必要である。心身問題の「難しい問題」(hard problem)と呼ばれる問題、すなわち「脳内の物理現象が、どうして我々が日常経験するようなありありとした〈こころ〉を生むのか」ということについてまでは、残念ながら小林細胞主義は答えを与えられない。この難問についてうなりながら考えることを、私は自分の仕事の一環としたいと思っている。

 

 哲学は基本的に、ヒトすなわち人間の営為に洞察を加える。したがって〈こころ〉について考えれば、即座に〈ことば〉についても考えざるをえない。我々が絶えず行っている、内的な思考の反芻および他者とのコミュニケーションは、〈こころ〉を〈ことば〉で表現することによって成り立っているからである。こうして〈こころ〉の問題は〈ことば〉の問題と固く結びつき、両者の相互関係を考えることもまた重要になる。ハイデガーは確か、「わたしがことばを語っているのではなく、ことばがわたしにおいて語っているのだ」という趣旨のことを述べているし、チョムスキーは「言語学は心理学の一分野である」と断言している。例えば彼らのこういった言葉が、〈こころ〉-〈ことば〉問題をひも解く手がかりになることもあるだろう。

 

哲学をやるからには誰もやったことのない面白いことをやるべきだと私は思う。さまざまな著作に触れ、あちこちに出かけ、時に部屋にこもって思索にふける。その過程で新世界が開けてゆくことに私は賭けよう。賭けに勝っても負けても、帰ってくる場所は『孝太郎』である。なぜなら『孝太郎』は、私の〈ことば〉のはじまりであるのだから。

 

(革島秋遷/終)

3/1
 先日アルバイトをしている店の先輩が社会人となるので退職することとなった。その人にはかなりお世話になったのできちんと挨拶しておきたかったのだが、都合悪くそうはいかなかったので非常に残念に思っている。
  それにしても今回のお別れはかつてなく再会の可能性の薄い別れのように感じられた。中高を通じ別れは多くあったが、いつかはまた会えるだろうという思いをどこかで抱くことができるものであった。しかし今回そのような期待はほとんどできない。それは別れる人の行き先が、無限大に広い社会という場だからである。社会は一部分を取っても膨大な人ともので溢れており、別れた人の所在は正に一点で分かっていない限り把握することのできないものとなってしまっている。偶然の力もここではあまりに弱い。一度の別れは永遠の別れ、互いの死に近い重みを持つものとなる。
 近頃このように社会の大きさを感じる機会が増えている。それを感じると同時に考えざるを得ないのが自分の小ささである。社会の大きさを意識すると、今までは多少無理を押し通してやりくりしてきたこと全てが近いうちにどうにもならなくなるのではないかという恐れを抱いてしまう。それによって今まで以上に自分が萎縮し、これまで自分が意識してきた社会ほど広くはない世界においてさえ行動に悪い影響を及ぼす可能性がある。
 そうならないようにするには今までの自分とは異なる特殊な人格形成が必要となるのかもしれない。いわゆる社会人的人格とでもいうべきなのだろうか。それが具体的にどういう人格なのかは分からないが、おそらく私自身も社会に身を置くにつれて自然に形成していくのであろうと思う。しかしその特殊な人格が社会にとって良いものであるとしても個人にとっても良いものとは限らない。
 現在私は今までの世界と社会との間を行き来している。眼には見えずともはっきりとした隔たりを持つ二つの世界の違いにもっと敏感にならねばならないと思っている。

 フルキャストの事件。幹部クラスの人々が人権侵害メールを回していた,というやつです。陰口。それも精神的な不調を訴えたことに対して。言葉遣いがエリートでも内容が内容ならば人間的に低いのは歴然。

                          

 しかし,疑問でした。どうやって発覚したのだろうか,と。企業の幹部の相互のメールです。内容が中傷であったとしても,普通分からないはずです。被害を受けた人は何故気づけたのか。

 

 調べてみましたら,被害者と会社は精神的な不調から労働交渉に当たっていたようです。被害者が会社に送った交渉関係のメールを幹部は意見を加えながら転送しあっていたらしく,その際被害者に誤って送信した人がいて発覚した,とのことです(asahi.com記事227日)

 

 一人のうっかりミスが全てだったというわけです。それも被害者に送ることになるとは…受け取ったときの辛さは量りかねます。悪いことはバレて報いを受ける,というのは言い古されていることですが,今一度それがある面正しいなあと思います。筆者の祖母はよく「昔の人はよく言った」という表現を使って,現代に残る知恵を評価します。因果応報の現代的な意味ですね,「悪事は必ず裁かれる」。メールというのは秘密である,という当たり前のことが何故かこういう大事だとうっかりバレる。もちろん真理というわけではないでしょう。暴かれない多くの悪事があるかもしれませんし。

 

 印象的な事柄を集めたものが古来からの言い伝えであると思います。真理ではないにしても,これだけ今の世の中にも普遍性をもつ時があるというのに驚きます。現代では例えば「夕焼けは翌日晴れ」などや土地の人の天気の予測,「おばあちゃんの知恵」など解明されているものも少なくありませんが,そうでない道徳的な言い伝えも多いわけで,それもやはり何かしら説得力を持っている。科学ではない知の蓄積があるのだと思います。

 

 「昔の人はよく言った」というのは実感です。昔からの知の蓄積をそうやって受け止められる力を我々は持っているといえます。ただ,今回の場合実感できるというのは,つまりは悪事がバレることであり,そもそも悪事は消えないあたり蓄積しているのか,という矛盾にも突き当たります。現れた矛盾にどう知を向けるか。これは後々蓄積するかもしれません。残る知恵もそうやった蓄積の結果でしょう。

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