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本気でなれるとは多分思っていなかったが、しかしなりたいと言う気持ちを押さえることができなかったのは確かである。
この年になるまでそういう夢は色々抱いてきたと思う。憧れであったもの、熱中していたものに影響されていくつもの夢が現れては知らないうちに消えていった。
そして今も、私はやはり色んな夢を持っている。特別することはなく、すべきことをもたらすような関わりもほとんどないため、私は自由にやりたいことをやれる環境にある。そんなわけで、私なりに色々やりたいことを考えている次第なのである。
しかし今持っている夢は、どうも今までの夢とは性質が違うように感じる。今持つ夢は、現実逃避に思えてならないのだ。
現実逃避といっても、叶える気がない夢ばかり持っているというわけではない。私の場合、夢は大体今の自分が持たないものを備えた自分の姿を想像しているもので、いつかはかくあらねばならないという思いが働いている。だから叶える気のない夢というわけではない。
しかし、今持つ夢はある未来から逃れるために次々と浮かんでくるものであるように思われる。ある未来というのは、このまま時間が経ったとき来るだろうと思われる未来である。自分がこのまま余程意思を持って行動しない限りは結局行き着くであろうと思われる未来が頭のうちにあり、そこから何とか抜け出したいという思いから頭が勝手に夢を作り出している。
だから現実逃避と言ってもあながち悪いものなのだとも言い切れない。少なくとも未来に対しただ呆然としてるわけではなく、危機感を持っていることが現れているからである。
しかし決して真っ直ぐな夢とも言えないのが寂しいところである。かつて見た夢に比べれば何とも夢のない夢で、その意味では年を取ったものだと思ってしまう。その一方で、決まりかかった道を進みたがらないというのはいかにも若者くさい。やはり自分とはよく分からないものである。
駄詩一つ
文月
前略
あなたの活気が手元で広がったかのよう
封筒を開けたときに熱気を感じました
長らく封書などというものを忘れていた私は
葉書やその他の機会のように
文字だけ飛ばすことに慣れ過ぎたようです
文章という
文字だけでも言葉だけでもない
一つの情景を
この月に送ってくれたことが
うれしくてなりません
この月もまもなく暮れて
あなたの葉もいっそう茂るでしょう
稲もまもなく中干しが終わり
豊穣への力を蓄えるようです
暑さにどうか気をつけて
あなたの前途が
実りの季節に拡がる道でありますように
草々
先週の更新をうっかり忘れておりました。すみません。
本当ならば先週お伝えするのに恰好の話題だったのですが、今回は祗園祭のことを書こうと思います。
私は今年の祗園祭に学生アルバイトとして参加しました。神幸祭において神輿を運ぶ行列に参加し、太鼓を運ぶという仕事でした。
祗園祭というと、山鉾巡行がメインイベントとして思い出されるのでありましょうが(ヘタをすると宵山の方が祭のクライマックスなのかも知れません。人出で言えばそうなのでしょう。)、神事としての本来の祗園祭の意義は、八坂神社から四条寺町にある御旅所へ神々を運ぶ神幸祭と、その一週間後に八坂神社へと神々を返す還幸祭にあるのです。
昼間の巡行に比べて地味とはいえ、それでも立派なお祭りです。神々を喜ばせるために綺麗な装飾を施された神輿、太鼓、何か分からないけど矛のようなもの、それに雅楽の演奏も伴ってなかなか見応えのある行列であります。昼間ほど人出も多くないので楽しく観光できるイベントだと思います。
私は見られる行列の側にいましたが、そちらの視点もなかなか楽しめるものでありました。辿るコースは、普段では絶対にど真ん中を歩けないような大通りあり、意外と通ったことの無かった趣深い小径あり、大変興味深いものでした。定点から流れていく行列を見るよりも、行列にまじって流れてゆく景色を眺めている方が私は楽しいと思いました。
先々週の今日、私はレスキュー隊によって谷底から救出され、消防のヘリコプターで病院に搬送された。
7月6日、私はひとりで京都北部の廃村八丁にでかけ、途中で崖の下に転落して身動きが取れなくなった。初心者レベルの登山道だったが、一瞬の油断と焦りが事故につながった。落ちた場所は滝が幾重にも連なる複雑な地形で、二方向は滝、二方向は断崖絶壁、四方どこを見ても脱出できそうになかった。時刻は正午前、幸い特に大きな怪我もしていなかったが、なすすべもなく約24時間、警察の捜索隊に発見されるまで谷底にとどまることになった。
滝から滝壺へ、また滝へと水が轟々音を立てて流れる中、時間は遅々として進まなかった。たまたま持っていたトランプを切り混ぜたり揃えたり、行き帰りのバスで読もうと鞄に入れてきた新書のページを繰ったりしてみた。かえって虚しい気分になった。携帯電話は圏外だった。手持ちのおにぎり3個とチョコレート10粒で何日生きられるか考えた。死ぬということは不思議と考えなかった。
日が当らずじめじめして、濡れた足がこごえた。1時間がたったころには、何かをもてあそんで時間をつぶす気力はもはやなくなっていた。でこぼこの岩場にピクニックシートを敷き、両足を抱えてひたすらうずくまっていた。こわくはなかったが、とても不安だった。
夜は文字通り真っ暗だった。目をつむると余計な幻想の走馬灯が回る。目を開けた方が暗かった。できるだけ体を動かしてはいたが、少しずつ体温の低下しているのが感じられた。眠ると危険だと思った。
おそらく午前2時ごろ、漆黒の中をただよっていた私の目に黄色い光が映った。助けが来た、と一瞬思ったほどまぶしい光だった。私は一心にその灯を目で追った。蛍だった。激しい水音の中、蛍がただ一匹静かに飛んでいた。私はそのとき何も感じなかったと思う。安らぎを得ることも、余計に不安になることも、感動することもなかった。ただ少し面白かった。遭難して蛍を見るとは――。黄色い光は私のいる場所でしばらく迷うように飛んだあと、滝壺の向こうへと消えていった。
翌日の午後、私は無事救出された。お世話になった多くの人に感謝と陳謝を申し上げたい。怪我は快方に向かっており、後遺症もなさそうだ。事故のこともそれなりに冷静に思い出すことができる。そのなかで、しかしあの蛍の光は、夢というか幻というか、ある種の非現実感を伴って、私の記憶の中で繰り返し再生されるのである。赤ん坊の笑顔に対する喜び――それは子に対する母の愛の源泉であるでしょう。母の子に対する無償の愛というのは、正に人類の宝と言うべき習性であり、人類の多くがそこに究極の、聖なる美を見い出してきました。時代が進むにつれて、もともと当たり前と考えられてきた様々なものが理性によって疑われ、猫の可愛らしい仕草さえも機械的な反応に過ぎないと一蹴する怪しからん輩もいるという世の中になったのに、母親の子に対する愛は現在に至るまで冒涜されたことなどないに等しいほど尊いものであり続けていたのです。
そんな愛の感情が、世間一般では悪者扱いされる麻薬によってもたらされる快楽と根が同じものであるというのが今回の説です。今はまだただの一説に過ぎない扱いですが、これが更に真実味を帯びてきたら、一体世の中はどうなるのでしょうか?母親の愛もつまらないものなんだという意見が広まってしまうのでしょうか?
多分そんなことはないですね。多くの人に共有される素晴らしい愛の感情は決して貶められることはないでしょう。それに、子に対する母親の愛は、我々人類が存続する上で欠かせないものであるはずです。我々に必要なことは正しいことと認められてしかるべきです。社会というのは色々なものに線引きしますが、その根本はやはり社会の維持に必要だからという理由があると思います。だからどれほど麻薬と同じ仕組みが働いていたとしても、母親の愛の感情は麻薬と同じものではあり得ません。
そうはいっても、やはり面白い説です。子を生むと女性は途端に母親らしさを身につけるというのはよく聞く話ですが、もしかするとこうした麻薬のような赤ん坊の笑顔が、女性を母親にするのかもしれません。赤ん坊の笑顔にイカれちまって母親になる…と聞くと、何だかそれほど悪いもののようには思えない。不思議ですね。
神戸にある「人と防災未来センター」というところに行ってきました。阪神・淡路大震災の記念館的存在で,震災追体験及び記録保存・提供の場である防災未来館と,「いのちの尊さ」を訴える,ひと未来館が併設されている施設です。
防災未来館→ひと未来館の順序で見て回ることになってました。各館上から順に一方通行で見ていく方式です。まず,防災未来館は順に「追体験フロア→震災の記録フロア→防災・減災フロア」でした。最初の追体験フロアでは震災発生の瞬間の再現映像をシアター方式で体験,ガレキとなった町のジオラマを歩き,復興ドキュメントの鑑賞と移ります。次の震災の記録フロアでは復興のメッセージとジオラマの時系列配置と,被災者からの提供資料展示,語り部の方のお話が体験でき,最後のフロアでは世界の災害と対策,及び災害と防災・「減災」(災害が起こることを前提としてその被害軽減を前もって行うこと)への知識を深めることが出来ます。
印象に残ったのは最初の「追体験」でした。阪神淡路大震災当時筆者は5歳で,ゆれが発生した時は兄と布団を並べて寝ており,ゆれで眼が覚めると母親が必死に箪笥が倒れないよう押さえていた,という記憶があるのみです。それ以後,さまざまな機会で震災について学び,一応は経験の記憶もあるためある程度理解していました。
しかし,それ以後の映像ドキュメンタリーでも,「音」の体験,それも「発生瞬間の音」については,テレビ局の内部を映した映像くらいしかしてきませんでした。被災者の中にはまだ当時の情景がフラッシュバックしてきてしまう方もいらっしゃるため,公の放送などではダイレクトに地震を想起させるものは含まれないのでしょう(9・11の飛行機突入の映像も同じですね)。再現映像とはいえ,食器,ガラスが割れ,ビルが崩れ,電車が脱線し,人々が泣き崩れる映像に「音」とともに触れると,これまで見てきたある意味“きれいな”映像で一般に感じられる「凄い」とか「怖い」とかいう感情を凌駕したような切迫が,真っ直ぐ掴みかかってくるかのような印象を受けました。
おそらく,無害化した映像だけでは伝えきれないものがあり,それしか知らないなら事実上体験は「風化」してしまうのでしょう。これが戦争規模になると技術,心理両面で難しさはありますが,同様のことが当てはまるかもしれません。あ,もちろんだからといって戦争を体験することが平和につながり,進んで戦場に行けなどとは言いません。今回は「音」というものが残っており,それに触れることが出来たからこそよけいに感じたということです。「音」がなかなか残っていない事柄は,それこそ想像力で風化から救うことが勝負になるでしょう。
次のひと未来館は,何故海浜都市神戸でブナ林の四季を見たり,脳科学をビデオ鑑賞してるのだろうと思ったりしながら,よくある科学センター見学のような気分でいい暇つぶし体験をしてきました。閉館ギリギリになっていたこと(本気で防災未来館見ると半日かかる)で,人がガラガラで,中国から来た人と木の実の話をしたりできたという,まあそれはそれで面白い経験でした。
私は、毎日電車通学である。蒸し暑い外から、電車の中に入る瞬間に感じるあの温度差には時々頭が痛くなってしまう。夏は暑いはずなのに、なぜか電車の中では、物凄く寒い思いをするのだ。暑ければ、袖をまくればいいが、寒さに耐えられないときには、何かはおるものでもなければ、どうしようもない。鞄にわざわざ毎日はおるものを入れていくのも、面倒くさいな、という気持ちもあって、私は長袖のカーディガンを着ていくわけである。
さてさて。そんな寒い電車を始めとする、公共の場の冷房設定温度はどのくらいなのであろうか。インターネットで軽く検索をかけてみたところ、どうやら26℃程度が一般的なようだ。政府が冷房の設定温度28℃を推奨し始めたのに合わせて、設定温度を1℃あげて27℃にしてみた電車やデパートもあったようだが、その途端、「暑い」というクレームが続出して、結局26℃に戻したという話もあった。どうやら、人間というのは外の気温より中の気温が2℃程度低くないと快適に感じないらしく、どうしてもきつめの空調になるのだそうだ。今まで、私は公共施設を運営している側がどうして設定温度を上げないのかと、少し不満に思っていた。だが、実際、公共施設内で働いている人たちは、ずっと施設内にいるのだから、身体が冷え切ってしまって、本当に辛いらしく、下着を2枚重ね着するなど防寒対策をしなければならないという話もあって、設定温度が低いのは、公共施設を利用している側に原因があるのか、となんだか少し驚いてしまった。
寒いなら、何かをはおればいいが、暑い場合は脱ぐにも限界があるから、寒い人が対策をしろ、という意見も聞いたことがある。しかし、温度差によって、身体に変調をきたす話はよく聞くことであるし、冷房を過剰に効かすのは、環境にも悪影響があることであるから、もう少しなんとかならないものだろうか。そんなことを考えながら、今日も私は、長袖のカーディガンをはおって寒い電車に乗ったのだった。