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真夏の象徴といえば青空に立ち上る入道雲だ。青をバックにしたあの異様な白さは何かぞっとさせるものがある。入道雲の不気味さは、照りつける暑さのど真ん中で、まるで対極とも言える夕立を連想させるからであろうか。案の定夕立にお遭いした時には、「あぁ傘をささなくちゃ」「洗濯物を取り込まなくちゃ」といった具合に現実に引き戻されて、さっきの入道雲のことなんてすっかり忘れてしまう。そうして、入道雲の話はもうおしまい。
次に私が気になって仕方がなくなるのが、雷だ。夕立の中でゴロゴロと不機嫌な音を立てるあいつにはハラハラさせられる。この夏は自転車での移動中に、あいつに見舞われることが多々あった。落ちてきたらどうしよう!!私に落ちてきたらどうしよう!!一体どんな確率で私に落ちてくるのかは、数字に強いどなたかにお任せするが、その値がいくら小さかろうと、ああ私に落ちてきたらどうしよう!!という気持ちになる。
稲光を見るたびにビクッとして低姿勢で自転車をこぐ。「いち、にぃ、さん・・・」と音までの時間を数える。「よし、まだ遠い。」稲妻が見えたときにはもう冷や汗が噴出す。「やっぱり雷は存在しているんだ。」どんなに雨が降ろうとも傘などは無用だ。無用、というよりあいつを招くことを懸念しての結果だ。しかしなぜみんな平然と道をゆくのだろう?
そんなことを頭の中でごちゃごちゃに混ぜながら、ようやく家に着く。私にとってはまさに命からがらといった具合だ。家のドアを開ける瞬間は、ほっとする。生きて帰ってきたぞぉ。シャワーを浴びてホットミルクをごくりと飲んで、冷えたからだが元に戻り始めたころには、窓の外は「普通」の夕方になっていた。入道雲の夕立も雷も、誰もいないただの夕方。帰路の出来事はみな夢だったのかなぁ?身の安全を保障された私はケロッと普段の大きな態度に立ち戻る。普通の生活のなかの普通でない部分はまるで夢のようだ。夢だったのかもしれないなぁ・・・そんな事を考えながら本当の夢の中へおちていく。
大丈夫、もう安全だ。目覚めれば、きっと「普通」の夜が待っている。人は最終的に哲学に行きつく、というようなことを考えながら歩いていた。どんな仕事をしていても、家族とか社会とか自分とか、そういった根本的な問題にぶちあたらない人はいない。そんなとき、哲学科を出たようなやつは、「カントによればかくかくだけど、マルクスによればしかじかだよ」などと知ったような口をきくかもしれないが、「じゃあ、君自身によれば?」という返しにはめっぽう弱いに違いない。
哲学とは、「体系化されたことば」である。であるから、哲学のある人とは、「体系化されたことばを持っている人」のことを指す。他者の言葉をどれだけ記憶しているかという問題とは根本的に次元が違う。抜け目なく「体系化されたことば」は世界を説明する。大概の事ならば、どんな質問をされても、哲学のある人は即座に自らの体系座標の中にその問題をプロットし、的確な解答を導くであろう。
西田幾多郎は思想家の全集というものをひとつも持っていなかったという。全集を買わずとも、その人の文章を数篇読めば、その他の問題に対して彼/彼女がどのように答えるか全てわかってしまうからだ。実際哲学とはそのようなものであろうと思う。すなわち、「私の哲学とはかくかくしかじか、うんぬんかんぬん…」というのが無数にあるわけではなく、その人の哲学という大きなひとつのものが存在していて、それでもって様々な問題に相対するのである。
こんな関係は、私の知る限り最も良い他者との関係であると思う。ではこれが愛なのか?しかし犬に対して抱く感情は、どうしても人間に対して抱く感情とは異なるものであろう。その辺は経験が特に足りないので何とも言えない。ただ、犬と共にいる雰囲気が自分を素直にしてくれる(時に素直以上のものにもしてしまう)のは確かである。それが他の空間ではなかなか得られないものであるだけに、一層犬といる時間は貴重なものに思えるのだろう。
しかし犬のみと一緒にいる時間は都合良く続いてはくれないもので、突如素直になりたくない者に自分の素直な姿を見られてしまうという恥ずかしい失敗をしでかしてしまうのである。そもそも私は犬を飼ってないのでこんなことは起こり得ないわけだが、そのうち必ず飼うつもりでいるので、注意しておかねばならないことだな、と思っている。
こういう場合の「哲学」とは何であろう。大学で哲学を専攻したからといって身に付くようなステータスではない気がするし、「哲学のあるひと」というのはもっと日常的に、色んなところに紛れていそうな響きがある。
紛れていそう。ここが恐らく重要である。
例えばアリストテレス、デカルト、ニーチェ。こういった人類史にその名を残す哲学者たちに対して「哲学がある」という言葉はそぐわないように思う。彼らは「哲学がある」というよりもむしろ哲学そのものであって、その思想内容でしか我々は彼らを認識していないのだ。そうやって固まってしまった哲学はむしろ「思想」と呼ぶに相応しいもののような気がする。
同時代人であっても、自身の哲学を強く誇示する人にあまり「哲学がある」という言葉はしっくりこない。その哲学を言葉にし現実を動かす力とした途端、それは思想性を帯びる。(もちろん、それが悪いというのでは全くない。思想がなくて現実が動かないのでは困る。)
是によりて之をみるに、「哲学のある」人がその哲学を応用する範囲は自らの行動なのではなかろうか。換言すれば、自分の考えに裏打ちされた行動をする人に私は憧れを感じるのだ。借り物の思想で動く人に哲学はない。自ら幅広く考え、それに基づいて為された行動は、凜としていて自信に満ちていると同時に、例えばそれを人に正されたとしても素直に反省することができるのである。
私の住む地域は少しばかり、京都の碁盤の目から外れたところにあるので夜はやや暗い。とはいってもいたって普通の住宅街なので、星空の見え具合はといえばこれもまた「普通」くらいだ。しかし先日表に出でみると、めずらしいことにずいぶんとお星さまがおでましになっているではないか。
ちょうどそのとき友達との別れ際であったので、その友達と一緒に「めずらしいね」と夜空を眺めた。中学生のころに習った方法で、カシオペア座から何倍分線を延ばして、北極星を見つける。あの星・・・かなぁ?なんだかめずらしいお星さまに紛れて、漁師の心強い見方も、今夜は影が薄い。またまた中学生のころの知識を引っ張り出してきて次は夏の大三角を見つける。(これは友達が見つけてくれた)綺麗だ綺麗だと同じ言葉を繰り返した。天球に星が貼り付けられている?そんなばかな、見れば見るほど奥行きが出てくるじゃないか。見れば見るほど、お星さまは遠くなっていくじゃないか。
夜空を仰ぐことなんて、なんだかとても久しぶりだ。ずっと見ておきたかったが、慣れない姿勢を続けていたために急に首が痛んできた。その痛みが私を急に現実に引き戻した。その引き戻し方はほんとに非情だ。「帰ったらあれもこれもしなくちゃ・・・お風呂から上がったら明日の準備もしなくちゃ。」という考えが頭をよぎる。お星さまの遥か下方で、ちまちませかせか動き回っている自分に失笑させられた。
お星さまを見つけてくれた友達とベラベラと喋り大通りまで見送ったあと、ぷらぷらと自宅へと足を運ぶ。「今日は部屋からお星さまが見えるかもしれない。」と、もう一度夜空を見上げる。
「あれ?」大三角とカシオペアの半分が雲に飲み込まれていた。ほんの数分間のことだったのに。なんて勿体無いの!あんなに綺麗だったのに。みんなも見られればよかったのに。この町だって昔よりは明るくなってきているんだから、もうしばらくは、あんな夜空見られないかもしれないよ。
負けん気を出すわけではないが、手元に『現代語から古語を引く辞典』(芹生公男編、三省堂)と『岩波古語辞典(補訂版)』(大野晋ら編、岩波書店)という強い味方がいるので、試しに引いてみる。
『現代語から…』で“かおる”を引くと、「かをる(香)」「きこゆ(聞)」「くんず(薫)」「にほふ(匂)」の四語が載っている。“におう”を引いてもほぼおなじことである。いくらなんでも嗅覚情報を表す語彙がひとつということはなく、四つほどは使い分けがあったらしいことがわかる。
次にこれらの単語を、大野氏への追悼の念を込めつつ、それぞれ『岩波古語辞典』で調べる。同辞典は、基本語の語源や同義語の相違点などについての解説が群を抜いて詳しい。「かをる」については、《煙・火・霧などが、ほのかに立ちのぼって、なびきただよう意。転じて、匂い漂う意》、「にほふ」は《ニは丹で赤色の土、転じて赤色。ホ(秀)はぬきんでて表われているところ。赤く色が浮き出るのが原義。転じて、ものの香りがほのぼのと立つ意》という丁寧な説明が施されている。「きこゆ」は《聞キの自発・可能・受身の形。エは自然にそうなる意》であり、ここから「匂って来る」という意味が派生した。「くんず」は「薫」という漢語をサ変化したものであるため語源解説はなく、「(香が)香る。匂う。」という一般的な意味のみが載っている。
四つの単語を辞書で引いたからとて、何か画期的な発見があったわけではないが、どうやら日本語には、初めから嗅覚由来である単語が皆無であるということがわかる。においに関する語彙はすべて、視覚や聴覚からの転義でできあがっているのである。そして、「続嗅覚論」で鋭く指摘されているように、これらの語は(主に人物の)「総合的な美しさ」を表すものである。日本語には嗅覚語彙が乏しいと言えばそれまでだが、感覚をいたずらに区分けすることなく、全体から「におい立つ」雰囲気を様々な言葉で表現したのだと積極的に捉えてみてもよいだろう。
勢いで『漢字源』(松本昭ら編、学研)を開く。【香】の篆文は「黍(きび)+甘(うまい)」で、きびを煮たときに、空気に乗ってただよってくるよいにおいをあらわす。【薫】は、香草のにおいがもやもやとたちこめることがもともとの意味だそうだ。中国では直接的にもののにおいを表現していたことがうかがい知れる。
何も考えない行動というのは、理由のない行動とも言えると思う。理由のない行動は知能の発達した生物になるほど多くなるらしい。植物はその存在の在り方のほとんどが種の保存という理由で説明できるという。花の色さえも虫が寄り付きやすい色になっていると知った時は驚いた。もっとも、花が虫に合わせたのか、虫が花に合わせたのかは分からないが。
理由のある行動とは生存や種の保存のための行動というのが始まりなのであろう。しかし生物は賢くなるにつれて段々訳の分からないことをしだす。人間になると理由もなくあるものに強く惹かれて、その好みが趣味に高じたりする。趣味に没頭する人間は実に生き生きとしていて、理由のない行動によって一番生き生きとするところが人間の不思議なところだ、とよく言われる。少々頭でっかちな考えじゃないかと思う。
私もよく理由のない行動をとるが、別に生き生きしてるとは思わない。それどころか死にたくなるような気持ちになることもしばしばだ。それは先の考えをもとに反論すれば、本当は何も考えてない訳じゃないが、結局とった行動がもたらした結果は何も考えなかった場合と同じだったから、自分では何も考えてないのだと錯覚してしまった、ということだろうか。なるほど、そうかもしれない。