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春に
一つの花が綻んだ
高まる鼓動
切実な熱情
寒風吹き荒ぶ精神の冬にあって
花は確かに柔らかな光を放った
一つの花が薫った
蒼天の共鳴
これこそが世界なのだ
流れ出した空気に乗って
新しい現実がすぐ傍で照れていた
一つの花が歌った
離れゆく花々の跡を
言葉で埋めるように
残された花へそっと
氷雨がやがて降った
一つの花が散った
崩れ落ちるように
花弁が落ちて地に波が立つ
梢から遠く離れたそれは
漂いながら全存在の前で眼を閉じた
花の命を祝福する
言葉の残響
花は本当だった
永劫の中に身体を溶かし
やがて来る時の中へ流れ込みながら
今回私が引用したいのは「人間が勝手に作った円周率」の項。(アンサイクロペディアの世界では「3」が本当の円周率ということになっているので、こちらの世界の円周率をいうために敢えて「人間が勝手に作った」としている。)
「この数列には全ての(暗号化された)データが含まれる。当然、著作権で保護された音楽のデジタル情報も含まれている。人間が勝手に作った円周率さえiPodに入れておけば知らない曲も合法的に入手できる。(再生するためにはそのデータが小数点以下第何位から第何位までに当たるのかを覚えておけばよい。)」
勿論、そんなデータがあったとして、iPodに入ろうはずもないし、本家ウィキペディアの「円周率」の項によれば「現在 π は 1兆桁を超える桁数まで計算され 0,…,9 がランダムに現れているようには見えるが、この状態がこの先の桁でも続くかどうかは分からない」というわけで、円周率が無限に周期性なくランダムに続くかどうかは分からない。しかし、ランダムでないとも証明はできていないわけで、円周率にこの世の全ての情報が詰まっているというのは夢のある話ではあると思う。
同様にスケールの大きい話で、ニーチェの「永劫回帰」という思想を紹介したい。
私とてあまり詳しくはないが、素人なりにまとめてみると、「この世にある物質が有限で時間が無限であるならば、今現在と全く同じ状況が無限の時間の中のどこかに再び現れるはずだ。」という考え方である。
思想史的な意義は置いておいて、この発想そのものに注目すると、円周率がランダムであるのかという議論とかなり近しいものを感じないだろうか。
円周率に表れる素材は0~9という有限の数字である、これが本当に周期性なく永遠に現れてくれるのか。それは、この世界が、この人生が、本当に一回限りのかけがえのないものとして経験されているのか、と問うことに非常に似ている。ニーチェは、円周率にあらゆる音楽ファイルを詰め込むことは出来ない、としたことになる。それでは「あらゆる音楽ファイル」というものは無限にあるのだろうか?
…思考の中で有限と無限は激しくせめぎ合い、我々の生だけが哀しいほどに有限である。(といったらニーチェに否定されてしまうのでしょうけど)
私は高校時代、英語がなかなか好きになれないで苦労したのを覚えている。なぜ、日本語という使い慣れたツールがあるのに、他の言語を学ばなければいけないのか。学んで使うことが出来ても私のレベルではせいぜいぎこちない意思疎通が可能な程度である。それなのに、こんなにも貴重な時間を割いてこの実用化されたよく分からない言語を学ばねばならないのかと、実に不満でいっぱいだった。
言語についての専門的な知識なんてものは高校の頃と変わらずにゼロに近いが、しかし最近ようやくそれぞれの言語が持つ雰囲気のようなものを感じられるようになってきた。発音やリズム、文字の形、語彙・・・ただの記号に過ぎなかった言語にもこんなにバラエティーに富んだ顔があるのだ。無数の言語が存在することに対して不便さしか感じていなかったが、世界の言語をばらばらにした神の意図はあながち間違いではなかったようだ。
言語にはそれを話す人々の歴史が詰まっている。それが望まれたものでもそうでなくとも、言語には悠久の歴史が刻印されている。書物にも遺跡にも人の心にも残っていない歴史でさえ、言語は知っている。しかも人間がこの地上に姿を現したその日から、1日たりとも休息することなく言語は生き続けているのだ。一文字一文字、一音一音では何の意味も持たないのに、それらの組み合わせで人間の思いつく限りのことを表現できる。言語は背負った過去と未来へ向かう無限性の両方を兼ね備えている。
言語それぞれの顔というのは特定の人間集団(民族と定義されるもの)によるのだけではない。例えば同じ日本語でも地域でニュアンスは全く異なるし、それどころか一人一人によって紡ぎだされる言葉もそれぞれの人間の色に染まっている。きっと一個人というミクロな視点に立っても、言語は歴史的なものなのだろう。その人間が生まれてはじめて耳にした言葉、出会った人生の先輩たち、住んだ地域、そしてその環境を形成したいつかの出来事・・・彼の操る言葉にも壮大な歴史が積み重ねられ、そして共に成長してきた彼の人格を通して言の葉は紡ぎだされる。それは世界の一部分だけれども世界の何もかもと関わっている、歴史的産所産だといえよう。
拙いながらもこの私の口から出てくるものにも、それなりの壮大な歴史が詰まっているようだ。いつまで私の体がこの地上に存在するかは分からないけれど、その最後の日まで、私の言語と一緒に成長していきたい。そして私と共に生きた人間やわたしの言葉を見聞きした誰かの言語形成に少しでも寄与して欲しいと思うのだ。この身が朽ち果てようとも、私が一生涯共に生きた私の言語は生き続ける。なんとも心強い理論ではありませんか?
中学校から(正確には習い事で小6からだが)英語を学び始めてはや8年にもなり、ネイティブスピーカーとちゃんと話せるとまではとても言えないが、片言のコミュニケーションはできるようになったし、実際に外国で会話のやり取りをしたりもしたが、それでも英語がごく日常的に用いられる世界があるのだとは未だに信じられないものがある。外国人を見るとそれが我々と同じ人間だと思うこともできない。
彼らが何気なく話していることが、我々が何気なく話す下らない内容のものだと思うこともできない。
それは多分私が、外国人と身近な立場で交流したことがないからであろう。私の知る外国人はテレビで観た者に過ぎなかったり、実際に会った場合でも、社会人として、或いは教師として、つまり自分を立場の下の者として接してくる者であり、 その人の社会的な身分を抜きにした姿が見えるケースがなかったのである。異国との壁を乗り越える良いきっかけを未だに持っていないということになるのだろうか。
こんな私でも外国人とうまく話をすることができた時は非常に嬉しくなるが、それは英語というツールをうまく使うことが出来たという技術への喜びのような面があり、相手と交流できた、という喜びではないことになる。例えば英字新聞の内容が分かったというだけでも、話せたことと同じ質の喜びが得られてしまう。もしかすると学力的に培った英語力を試したいという気持ちの方が、異国の人と交流したいという気持ちに勝ってしまっているのかもしれない。
長々と英語を学んできたが、調子良くいけばそれも今年度で終わりとなる。そんな時なのに外国人に対し上述の思いを持っているのはけしからんと反省し、意識的に勉強し直さねばと思いつつも、どの先生なら楽に通るだろうかと考えてしまうあたりどうしようもないものだと悩んでいる。
池田晶子氏の文章「あたりまえなことばかり」に冒頭から出てくる一節に「言葉は命である」というものがあります。高校生でこれを読み,それを思って生活する中で自分の中で何か信念というか,目標というか,そういうものになっている一節です。
氏は死刑未決囚との公開往復書簡をテーマにこれを語ります。また,ホスピスにお務めの友人を指しても示します。
「死の床にある人,絶望のそこにある人を救うことができるのは,医療ではなくて言葉である。宗教でもなくて,言葉である」
「状況が動く限り,言葉は動く。生きている限り,言葉は必ず動いているのである。」
そして氏は,「だからこそ,会って語る,あるいは語らなくても共に居るということが,共に歩むことにおいていかに不可欠のファクターであるか,私は痛感した」と続けます。つまりは人との間で生きること全てに関わるものです。この次元の理解にまで私は簡単にはたどりつけていませんが,「状況が…」の部分までは何とか追いついていると思います。
このデイリー孝太郎は,一見すればどこぞの馬の骨とも知れない人間が日常のことを針小棒大に書きなぐったもの,と見えないでもありません。それゆえ義務感であるとか,方向性の無さであるとか,表面のきめの粗さが指摘されるときもあるのでしょう。
しかし,少数とはいえ人が言葉を連ねた文章,それが修正を加えられることも無く掲示されることについては,崇高な…と言えば大袈裟でしょうか,理想を感じます。
個人が日記のように文章を書くブログと違うのは,ブログはその継続,些細な日常の積み重ねに筆者の生活を感じるのに対し,この文章は連続させてもあくまで「連載終了」まで,基本的には一話完結でその人の考えを示します。文筆家でもない人々がそのように自己の言葉を凝縮させたら,そりゃあ問題もいろいろと発生するであろうにも関わらず,果敢に挑んで…いる人もいる(腰砕け)ことについて,注目したいのです。
事柄は言葉で語らざるをえません。その時にどんな言葉を選ぶのか。それがその人の人格を示すものであり,そして人格になることは「人の子の最大の幸福」(ゲーテ)となります。 今はまだデイリー筆者の人格どおしがふらふらと葛藤している感じかもしれませんが,ここからだけでも言葉の力がうっすらと浮かび上がるのではないかと思っています。
さあ,取り止めがなくなってきたところで…こういうわけですから,大元の「孝太郎」の文章のほうに,きめが粗くとも,一つ「一話完結」なものを投稿してみてはいかがでしょうか,と宣伝して終わっておきます。言いたいのはきっと3段落。まだ私も修行が足りないのでしょうね。
私が殊更強調するまでもなく、音楽を媒介するメディアの変化(進化?)は目覚ましい。音波を電気信号に替える技術は、音楽に録音・再生の調整という新たな手段を提供し、スピーカー・レコード・テープレコーダーといった新たな機器を生んだ。電気信号を数値化してデジタルに記録する技術は、音楽を劣化させずに保存することを可能にし、CD・MDという新しいメディアを登場させた。音楽メディアの歴史をみるに、この二つの契機が二大革命と考えられてよいのではないかと思うが、それに劣らず重要な第三の革命ともいうべき状況が近年起こっている、というのもまあ時々聞かれる言説であるが、私個人の所感として少し述べておきたい。
その第三の革命というのは「メディアの無形化」。iTunesを代表とする音楽ファイルのダウンロード配信が普及したことにより、音楽は実体のあるメディアから遊離し、あらゆる場へ転送可能なものとなり、結果、携帯電話でもパソコンでもiPodでもiPhoneでも音楽が楽しめるようになった。またミュージックビデオとして視覚メディアと結びついた配信も盛んになり、音楽の楽しみ方は多様化している。それだけでない。音楽は編集可能なものとなり、今やyoutubeやニコニコ動画といった動画投稿サイトには、違法コピーの是非はともかくとして、いろいろな視覚メディアと組み合わされたり、好きな曲順に並べられたりしたファイルが夥しい数出回っている状況である。
この音楽環境は、我々の音楽の聴き方にいかなる影響を及ぼしただろうか。音楽の聴き方の多様化というのは、単に人それぞれが「私は携帯で音楽聴く派」というように派閥に分かれただけでない。一人の人間の中にも「家に帰ったらニコニコ動画で音楽を楽しみ、出先ではiPod」というような複数の楽しみ方が混在するようになった。
すると人びとは気付いたはずだ。音楽というものは、それ自身完結した価値を持つというよりは、それを聴く状況、気分、オーディオ環境、映像の有無など様々な条件で違った聞こえ方をするものであると。だから、同じアルバムでも気分を変えるためにシャッフル再生にしてみる。大体気になった音楽はyoutubeで聴くが、特に気に入ったものはCDで買う。それでもその曲への愛が冷めやらず、着うたでダウンロードして目覚ましに使う。音楽の聴き方は高度に複雑化した。
だからこそ我々は、能動的に自らの音楽環境を選ばなければならないと思う。いたずらに四六時中音質の悪い音楽を鳴らし続けるのは、実は精神衛生上良くないことである。無責任な音に溢れた現代のサウンドスケープ(この語に関してはご自分で調べてください)は非常に劣悪である。私はMDに入れた音楽が、iPodに替えてから家でしか聴けなくなり、その覚悟はしていたものの、慢性的にストレスを感じるようになってしまった。主体的に良い音楽を志向しようではないか。それが音楽文化全体の高品質化にも繋がると信じる。
夜はとても静かな時間だ。日中はせわしなく活動している人間も、夜には床に就き眠りの世界に落ちてゆく。夜遅くに帰宅するとどの家の明かりも落とされ、辺りは静寂に包まれている。生きている者は自分しかいないのでは?と不安になるくらいに何の物音もしないのだ。日の高いうちには、人間は自分が世界の主役たる面持ちで街を闊歩する。その背景たらんとする街は、主に図体の大きな建物によって演じられる。どんなにそれが大きくても、人間様の存在感には勝ちやしないのだ。あくまで日中は背景である。そんな彼らも、夜には何よりも重々しい存在となる。昼間の雑踏がまるで嘘のように、彼らは世界に沈黙を強いるのだ。
夜は静かなもの、その静けさは我々人間が作り出した街によって実現していたのだ。街は生みの親である人間しか許さない。木々が風に揺れる音も、高層ビルが許そうとはしない。森に生きる野生動物の夜の世界も、満天の星空が地上を照らすことも許さない。矮小な人間が昼間にせかせかと生きることをただ許すに過ぎない。そして人間が眠りについた夜には、彼らだけの静かな空間を楽しむのだ。
そしていま、私はこの空間に足を踏み入れてしまっている。不自然で人工的な静けさが怖くなる。この中で人間は目を覚ましてはならないはずなのに、私はなにを堂々と歩いていたのだろう。私は夜の世界の異端者だ。いつかは裁かれる。
そう怯えながら、一方で生に満ち溢れた本来的な夜を強く強く想う。悠久の歴史の中、本来的な夜はずっと存在を主張してきた。そしてきっと今なおどこかにいるはずなのに、私は知りもしないのだ。けれども私は本来的な夜を探している。この街で培った拙い想像力と、ほんの僅かばかり遺伝子の記憶に残った野生を頼りに、私は本来的な夜を想うのだ。