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朝晩肌寒い季節になった。秋本番である。秋といえばスポーツ、読書、食欲といろいろなことが言われるが、要はどれも「体や頭をあたためる」ことを奨励しているにすぎない。あるいは、秋になって気温が下がれば、何かしら「あたたまる」ことがしたくなる。人とはそういうものであろう。

 気温を表す表現は四つしかない。「あつい」、「あたたかい」、「すずしい」、「さむい」

である。このなかで、両極端の「あつい」と「さむい」はかなり客観的な表現で、気温が高いか低いかという単純な事実と相関があるように思われる。ところが面白いのが真ん中のふたつで、これらは気温の絶対的な高低とは関わりが薄い。簡単に言ってしまえば、感じる人の気持ちを含んだ相対的な表現なのである。

 外気温が35℃の真夏、外出中にふと立ち寄ったお店にクーラーがきいていて室温24℃。だれでも「すずしい」と感じ、ほっとするだろう。逆に、雪の日に長時間待ってようやく目的のバスに乗れたとき、たとえバスの車内が18℃くらいだったとしても、命拾いしたように「あたたかい」と感じること間違いない。

 「すずしい」とか「あたたかい」という表現は、決まった温度に対応するようなものではない。どちらも快適感、幸福感を表す言葉だと言えるだろう。あつい中にある一瞬の快楽が「すずしい」であり、さむい中にある至福の時が「あたたかい」である。

 夏が好きか、冬が好きか、他愛のないことだがしばしば話題になる。夏が好きな人は暑いのが好き、冬が好きな人は寒いのが好き、と、深く考えるでもなく思っていたが、単にそういうことだけではないだろう。夏が好きな人は、例えば海とかアイスとかスイカとか、すずしいことに魅かれている。逆に冬が好きな人は、こたつとかおでんとか、そういうあたたかいものごとが好きなのである。

 私は冬が好きである。さむいのは嫌いだが、冬は好きである。冬には、夏の間は絶対に味わえない「あたたかさ」がある。俵万智のくさい短歌を引くまでもなく、ささいなことがあたたかに感じられる、そんな季節が少しずつ近づいてくる。
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 最近バイトのお陰で帰りが少し遅くなってしまうことがあるが、私が帰りに利用する電車の駅では、ちょっと遅い時間になると他の帰る人々の様子もいつもと異なったものになるので、その違いを探し出すのがなかなか面白い。
 特に顕著なのは恋人たちである。ロマンチックな夜を過ごした帰り道であるからなのか、彼らの間には彼らだけの空気が漂っている。また恋人たちそのものが多い時間帯でもあり、駅はそんな空間であふれている。私には共感しえない辛い空間である。
 二人のムードが高まると、彼らは駅のあちらこちらに立ち止まり、周囲を気にせず行動するようになる。
 先日改札口に行くと、改札機の手前で二人の男女が立ち止まっていた。近くに寄ってみると、彼らは少しずつ距離を縮めながらじっと見つめあっている。私からは女性の表情しか見えなかったが、実に真剣な眼差しである。言葉を交わしていないが、何か通じ合っているのだろう。
 だが私はその様子を見た瞬間に吹き出してしまった。彼らが自分達の空気に没頭してなければ笑ったことが気付かれ、一悶着あったかもしれないので危なかったわけだが、理由は分からない。駅ではよく見かけることで、わざわざ笑うようなことではない。彼らの顔が滑稽だったわけでもない。改札機の手前にはいたが、邪魔になる位置ではなかったし、私は彼らを皮肉っぽく笑ってやろうと思ってもいなかった。
 けれども私は反射的に笑ってしまった。人の真剣な行動を笑うというのは良くないことだと分かっているつもりだったが、そうでもなかったようである。これはなかなか危険なことではなかろうかと心配になってしまう。
 それともそんなことができるのが妬ましくて仕返ししてやりたかったのだろうか。それはそうかもしれないが、あまりにみっともない仕返しである。
 今はバイトが終わって疲れてたんだろうと思っている。いずれにせよ、笑うということはそもそも挑発行為であったとも聞くので、注意しなければならないなと思ったのだった。

  秋が深まってきました。気温から特に感じます。一昨日蝉が鳴いてたりしたんですがね。こういう時に「気づいたら秋が来ていましたね…」などと言っては月並みと切り替えされるでしょうか。

 

 月並みっていうのが,最近どうも難しい概念です。辿ったら無季俳句を率先して作った正岡子規が俳諧の音律の平凡さを指して言ったらしいですが。でも長きに渡って,いや今も季語ってのは用いられて,音律に従うことも多いですよね。形式はおいといて,それが愛でられるから存在するわけで。

 

 いやまた,人間というものの本性を考えてみてもいいかもしれません。アダム=スミスは「道徳感情論」の中で「人間は他者との共感を最大の快とする」みたいなことを唱えていました。いかに感性の鋭い人といってもそれが受け入れられない形では表現しないわけです。秋の感動を草野心平のように「るてえる びる もれとりり がいく。…」(「ごびらっふの独白」より)とは示さないものです。鹿はあくまでも奥山であひょーと啼き,それが月並みだと批判する側もあくまでも鹿を用いて表現するでしょう。秋と聞いてミミズを思い出しても,それがいかに根拠あったところで理解されません。つまり,人が秋を聞いて思い出しうるぎりぎりの境界線を探索するのが芸術家の仕事,月並みというのはチキンレースの結果の一つといえるでしょうか。

 

 人は「自分の分かる範囲でおもろいことやってね,あんまり冒険しないでね,でも無難なのはやめてね,そんなのは月並みって言うよ」というスタンスでも取っているんでしょうか。いや,全くめんどくさい。人受けのために,というのも一方的な言い方ではありますが,秋が来たことくらい奥山から鹿を引っ張り出さんでも気楽に考えりゃいいのに,と考えていました。

 

 筆者は,秋が来たので「月並み」に疑問符を呈しました。皆様,よい秋を。

 生まれてこのかた、本当の日の入りを見たことが無かった。私の知る日の入りとは太陽が山やビルや雲の中に入ってしまうものだった。本当に太陽は地球の裏側に去って行ったのだろうか?私たちの知らないところで、気まぐれに方向転換しているかもしれない。はたまた、私たちが見ている太陽は毎日新しく更新されたものかもしれない。この星は太陽系の惑星?何だよそれ。

 生まれてこのかた、本当の海を見たことが無かった。私の知る海とは、日ごろ食卓に出てくる魚たちがすんでいるらしいところだった。日本列島や世界の大陸を囲む青いところ。夏に人々がひしめき合って、楽しいふりをするところ。私たちの生命の源?何だよそれ。

 

 

 先日本当の日の入りと本当の海をこの目で見ました。本当の日の入りというのは大きな大きな火の玉が、本当の海の中へ入ってゆくことを言います。その大きな大きな火の玉に照らされた本当の海は、朱色に輝くのです。この星の誕生期を思い出させる赤い海とあの星の終わりを連想させる赤く膨張した火の玉、不思議な光景でした。

その輝く水面に見えるのは波でした。本当の海は波で自己主張をしながら、少し強がっているようでした。水中を覗きながら、私ははじめてこの星に誕生したプランクトンのように漂います。海とは違って自己主張だなんて、できません。ただの人間ですから。海の中は生命で溢れ返っていました。色とりどりの、へんてこな形状の生き物たちで溢れ返っていました。カンブリア紀の爆発にも引けをとらない生物相。私が手を伸ばしても彼らは何も気にしません。私はただの人間ですから。空からの光が水中できらきらと輝き、私が放出した二酸化炭素も柔らかい球体になって輝いていました。

 

これが地球の本当の姿なのかもしれない、美しいと一言でまとめてしまうには勿体無い世界を見ました。ただの人間は、豊かさに満ち満ちたこの星に住まわせてもらっているに過ぎないのでしょうか。
 朝テレビを観ていると、ミドリムシを用いた食品の開発が進んでいるというニュースがやってました。生物の授業で覚えさせられたミドリムシをテレビで目にすることになるとは思ってなかったので驚いたのですが、受験的な覚え方によれば、ミドリムシといえば鞭毛を真っ先に思い出します。
 丸っこい体から長い毛が一本伸びていて、それが鞭のようだから鞭毛。一発で覚えられますね。
 ところが高校時代はなかなか覚えられず苦労しました。というのも、他に微生物の器官の一つに繊毛というものがあったからなのです。繊毛はゾウリムシなどの微生物の体の回りを覆う短い毛で、(多分)繊維のように細い毛だから繊毛。これも覚えやすいはずなのです。
 ではなぜなかなか覚えられなかったのかというと、教科書では鞭毛はべん毛、繊毛はせん毛と書かれていたからなのです。平仮名で書かれていると、べんやせんの意味はよく分かりません。私は浪人してからようやくその違いに気付いたのでした。
 繊は常用漢字に含まれてもいるのに、なぜ平仮名だったのか今思えば不思議なことです。しかしそれ以上に漢字で書いておけば何を表しているのかもすぐに分かるのだから、そうしておいてほしかったなと思っていたのでした。
 ついでに漢字を使うのが控えられているというのはどういう理由によるのか分かりませんが、勿体ないことだと思います。書道などの文字の芸術が生まれていることからも分かるように漢字は他の文字と比べて表現力がかなりある文字です。多少難しい文字でも公にどんどん使う方が良いんじゃないかと思ったりしました。

悲しい気分というのはなんとも強力なものだ。反対に、楽しい気分は年を重ねる毎に、脆弱になってゆく気がしてならない。例えば幼い頃の遠足の前夜の雰囲気だ。あのたとえようのない高揚感はもう記憶の中にしかない。さらに泊りがけの旅行となってはそのそわそわした気分は絶大なものであった。愉快なこともたくさんあった。奇妙なものや、目新しいもの、日常を破る些細なことでさえ駆け出したくなるような喜びを見つけられた。

生活の楽しみとは何だろう。そんな年寄り臭い悩みを抱えている。時折感じるなつかしい「楽しみ」でさえ、その「楽しみ」には必ず終わりがあることを私は知っている。その「楽しみ」が、ほかの誰かにとっては取るに足らないことであることが往々にしてあることを、私は知っている。そして、どんな「楽しみ」も、悲しみによって急激に冷却されることを、知っている。

そんな「楽しみ」のはかなさを意識しながら、本当にこころの底から物事を楽しめるのだろうか。いつ何時心の中に住んでいる悲しみが、頭をもたげてくるか分からない。そんな不安に駆られたまま、何を楽しもうというのか。

人間の脳の中にある海馬は悲しいことと忘れようとする機能があるとよく言われる。本当だろうか?悲しみは蓄積され、楽しいという感覚は鈍くなるばかりだ。計り知れない機能を持った人間の人体にも、消化不良が起こっているのだろうか。

まぁ、こんな分析を試みるうちはまだ健全だ。そう言い聞かせて、今は無理に楽しいものを探している。

 大覚寺の「観月の夕べ」を楽しんできた。後から知ったのだが、大覚寺・大沢池の月は、なんでも「日本三大名月」の一つということだ(残り二つは猿沢池と石山寺)。名物の屋形舟に乗るための「舟券」は大人気。まだ日の高い午後四時ごろから三十分以上列に並んで、ようやく六時からの舟券を手に入れた。本当は七時からの券が欲しかったが、客の思惑は皆同じらしく、私の十人ほど手前で完売となった。

 午後六時。夕日が西の山の端に隠れて間もない時間帯だから、舟上から観月というわけにはいかない。舟遊びは舟遊び、観月は観月で、別々に楽しむこととなった。鳳凰の姿をした屋形舟には二十人ほどが乗り込んだ。舟中には舟頭と舵取りのほか、お茶やお菓子を用意する係と案内役、それに客をもてなす巫女姿の女性が三人乗っていた。三人の巫女たちは、それぞれ一所から移動することなく、わずかににじって体をひねる動きだけで接待をこなしていた。私に茶と菓子をふるまってくれた若い巫女は三人の中でも際立って美しく、雅なうたげに華を添えていた。

 別の巫女は年増で故事に詳しかった。大覚寺の起源である離宮・嵯峨院を建立した嵯峨天皇は、大沢池に映る月をひときわ好み、心ゆくまで愛でたという。彼女によると、天皇が池に映る月を好むのは、空を見上げずに観月を楽しむことができるからだそうだ。当時天皇は絶対的に最上位であったから、「見上げる」という行為はその地位にふさわしからぬことだったらしい。そこで、美しい池を造営し、そこに映る月の鏡像を「見下ろし」て、月見を堪能したというわけだ。どろどろした封建秩序の極みのような話だが、不思議と美しく聞こえる。

 屋形舟は静かに池を一周した。境内の景色が絶妙な速度となめらかさで流れ、兎を模した菓子と薄茶は大変美味であった。舟から降り、伽藍をしばらくぶらついていると、やがてあたりが暗くなり、東の雲間に月が顔をのぞかせた。境内にいる何千という人々の注目が月に集まる。嵯峨天皇が池に映したのと同じ月に……。

時空を超えて唯一無二。この当たり前にして不思議な事実に、私はあらためて感じ入ったのであった。
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