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他人が私のことを表すのに、しばしば「謎」とか「不思議」とかいう言葉を使っていた。

私は、たいていの場合、それを「独特のおもしろさ」があると評価された気分になって、内心、少し喜んでいた。

最近のことであるが、そのときの微妙なうれしさの正体が、実は「自分のことを良い加減にわかってくれている」といううれしさ、満足感だったのか、と気づいた。

私のことを「謎」「不思議」などと言った奴ら(女性もいるが…)、「こいつ意味わかんね」と思って言ったのか、「よくわかんないとこもあるけどなんとなくおもしろいね」、と思って言ったのか、それとも「こいつはこういったら喜ぶらしいぜ」と思って言ったのかは、よくわからないけれども。

私がいま考えているのは、「あなたっておもしろいね」とか「おまえって○○なやつだな」とかいうのでもなく、「ごめん、おれにはわからない」とか「おまえ超越してるな」などというのでもなく、「謎だけどなんとなく面白いね」というのが(と私が思っている状態が)最も安堵感、うれしさ、をもたらす、ということについてだ。なぜそうなるかというのが、もう勿体ぶる意味もないけど、というか書くのも二回目だけど、「私のことを良い感じにわかってくれている」ということなのだ。

わかってもらえる、という共有できる喜び。

これはおそらくみんなの中にある(と私は勝手に思っている)が、「おまえのこと、俺わかってるよ」と言われるときの憤りに似た違和感もみんなの中にあるように思う。

私はあなたには掌握しきれないものを持っているのだ、と思うとなんだか得意になる。しかし、「あなたのことなんてわからないわよ」と言われると、どうしようもなく寂しい。

おそらく死ぬまで、みんなとすべてを共有できるグループになど、私は所属しないだろう。そんなもの存在しない気がするからだ。

いつも少しの違和感を感じながら、ときどき少しわかってもらって、ちょっぴりほっとするのである。

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大学の後期が始まった。時間の密度が急激に高まる。粘液の中を泳ぐように、体力を消耗する。

この消耗は一種の快楽である。大学という知識と学問の府に於いて、めくるめく知のダイナミズムに揉まれることは、独特の恍惚感を伴う魅惑的な営みである。

 前期のあいだ、幾人かの優れた研究者との出会いがあった。学生の身分で教官の優劣を語るのはおこがましい限りだが、やはりひときわ輝きを放つ人物というのは素人目にも判るものだ。彼らと、その他の一般的な学者の違いは、独自の宇宙を持っているということに他ならない。整然と秩序づけられ、それ自身が閉じていながら、全体として絶え間なく伸縮し増幅する。そういう世界観を彼らは築いている。彼らの宇宙には、世の中のあらゆる事象や問題が位置づけられうる。時代の変化に伴い、突如として新たな概念が興隆したとしても、彼らの言葉はそれらを語り尽くすだけの力を持つ。

 そうした宇宙がキャンパス内に点在する。おそらく今日も、多くの人がそれらの宇宙に触れ、おそらく感銘を受けたり何か自分で考えたりする。けれども、もっと多くの人がそれらに無関係な一日を送る。世界観は、別なる世界観を変革することはあっても、世界を変革することはない。

 新たな世界観を打ち立てることの意味を考える。自分のことを知っている人がいて、知らない人がいて、これから出会う人と、出会わない人がいて、宇宙は無限に大きいようで、また同時に無に等しい。

 けれど、みんな人間である。それが、おもしろい。
 中学校からの友達が近々引っ越すことになったらしい。初めにそれを聞いたときは、引っ越し先の距離はそう遠くないし、メールもできるから、それほど大したことではないと思ってあまり驚きもしなかった。
 しかし後でぼんやり考えるにつれ、だんだん不安になった。 彼は高校、大学とも同じではないが、学校への行き帰りの道でよく会った。そのため彼の顔を忘れるようなことはなかった。しかし彼が引っ越しすれば、顔を合わせることは滅多になくなるだろう。私は忘れっぽい。段々と彼の顔にもやがかかり、自分の妄想加わり、記憶は実際の顔から少しずつ変わっていってしまうだろう。そしてもし久々に会う機会があろうとも、彼自身もやはり変わっており、私の思うものと随分方向性は変わってしまうだろう。
 美醜関わらず、顔は大きな個性である。もし彼の変わりようが、彼の内面なども踏まえて私が頭に描いていたものと同じならさほど違和感はないかもしれないが、そうでなければどうだろう。私の思う『彼の個性』が感じられないとなると、やはり彼を遠く感じてしまうのかもしれない。顔は大きな個性であり、そして他の個性とも強く結びつけられているのだと思う。
 しかし、勿論人間顔だけじゃない。顔の個性をぶっ飛ばすようなふざけた個性を持つ人はいっぱいいる。私の友人も、その類いであると思う。そのうち再会したとき、疎遠な気持ちなどまるで感じさせないものを放ってくれたらいいなと思う。むしろ私が相手にそんな気持ちを抱かせないようにすべきか。まぁ要らぬ心配だろうけど。

 土曜日担当の私はこれまで初回と詩の投稿を除いて文章を「ですます体」(で・すますではない。です・ます)書いてきました。今年の9月11日に文章を投稿された方が文体について「同じ内容でも、読み手に与える印象というのは大きく変わってくるでしょうし、書きたい内容や自分のそのときの気分に合わせて、文体が変わるのは当たり前のことのように思えます」と書いておられましたが,私も最近文章が「である体」で浮かんでくることもあって,束縛されなくてもいいかな,と思い始めました。

 

 では,この「である体」と「ですます体」にはどういった差があるのでしょうか。悩みます。もともと私が「ですます体」を使うのは五味太郎氏の「大人問題」などを読んで,堅苦しい内容を堅苦しくない見方をして,堅苦しい言葉と堅苦しくない言葉を堅苦しくない選択をして整えた文章に感銘を受け,その練習としたことが理由です。~である,なんてどうも意気高で,明治期の髭のオッサンくらいに肩肘張った感じがしていました。私の文章など軽薄なんだからかっこつけても仕方ないんだよもう,というわけで「ですます体」を一年以上使ってきました。

 

 しかし,「ですます体」というのは敬語です。いや,丁寧語です。人に対して使うあれです。これで文章を構成するならば必然的に相手を意識し,語りかけるような文章になるはずです。一方「である体」という喋り方をする人はそれほど多くありません。意気高に見えるほどですし,強い説得力を持たせるなどの効果はあるでしょうが,根本的に人に使うことばではありません。また,自分が自分の中で考えるとき,また独白で丁寧語を使う人は統計とってませんがそう多くない感じがします。

 

文章を書くならまず自分の中で洞察と考察があるはず。つまり,思想はまず「である体」で生まれると思います。それを人に言うにあたって「ですます体」で説明する。なので,とりあえずここで強引に結論付けると「自分の中の思索の結果は『である体』,何か主張になると『ですます体』に自然となるんやない?」です。

これが法則などというつもりはありません。「そのときの気分に合わせて、文体が変わるのは当たり前」なことに賛同しますので。文体がどういう意味か,ってのは研究者がいるでしょうし,逆にいたところで個々の感性の前に法則化も出来ないでしょうし。というわけで,気分と方向性によって文体くらい変えてみよう,と思います。

 バイクで信号を待っているときの退屈さと言ったら無いのであって。
 この間長い信号を待っているときに、私と平行に進まんとして歩行者信号の変わるのを待っている数人のグループが喋っていて、それは普通のことなのだが、如何せん退屈なので少しそちらの方を見やって格別面白いこともなかったのでまた正面の信号に視線を戻した。
 面白いこともなかった、というよりもずっと凝視していたら怪しまれるかもしれないと思って視線を外したのだと思う。ところで自分があのグループの中にいたとして、信号待ちのフルフェイスが微動だにせず此方をじっと見ていたらさぞ恐かろう、と想像してみて、何故かワクワクした。
 学園祭のお化け屋敷やら肝試しやら、人を怖がらせる体験をした人は多いと思われるが、あのときの得も言われぬ快感というのは何なのだろう。人は、他人の知らないことを知っていると少し気持ちよくなるものだが、お化けに身をやつす快感はその優越感の疑似体験かもしれない。徹底的に自分が相手にとって「分からない」存在になっても、自分は自分であって「分かる」存在である。そんなお化けのマッチポンプ式な楽しみは、実に歪んでいて、実際の人間がやっていたらその人はまず間違いなく堕落するなあ。
 そんなことを考えて漸く信号が青に変わってくれた。
 とある小説の冒頭部分。夜中に目が覚めてしまった主人公は、外に出て、今は何時頃だろうかと、空を見上げる。彼は星座の位置から大体の時間を知ることができるらしく、午前4時くらいか、と見当をつけて歩いていった。別に話の本筋とは何の関係もなく、文庫本ではほんの2、3行でさらりと書かれたこのシーンを、私は妙に気に入っていて、自分も星から時刻を知ることができるようになりたいと思っていたりするのだが、未だ実践できずにいる。
 さて、そんなことも関係しているのかしていないのか、先日、天文台へ星を見に行く機会に恵まれた。そこには、かなり大きな望遠鏡があって、それで、木星の縞模様やベガのダイヤモンドのような眩しさ、海王星の青や、肉眼では白く瞬いているようにしか見えない星の様々な色を見るのも勿論楽しかったのだが、何よりも私の心に残っているのは、地面に寝転がって眺めた満天の星空だった。
 人生で二度目の天の川、幾度も目にする流れ星、地元では目にすることのない数々の星。このとき、目にしていた星の中で、普段空を見上げたときに見ることができるものはほんの一握りだ。だが、たとえ普段見えないと思う星でも、確かにそこで瞬いているのだと、存在しているのだと、そう強く思えた瞬間、嬉しいというか満ち足りた気持ちというか、なんともいえない気持ちになって、特に何を話すわけでもなく、何処かからの虫の音だけが聞こえる中、体がすっかり冷え切ってしまうまで、私はただただ空を眺め続けたのだった。

バスに乗り、一番おちつく後ろの席に着く。別にバスの中を観察するつもりなんて毛頭無いが、一番落ち着くのはバス全体が見渡せる一番後ろの真ん中の席だ。だが今日はとんでもなく落ち着かなかった。「見られている・・・。」斜め前の席からの視線を感じずにはいられなかった。その相手は小奇麗な女性の・・・カバンだ!

カバンに描いてある奇妙な生き物が私を見ている。コーヒーカップに顔があり、人間の体がくっついている。その顔は丸や三角や四角を用いた、ロボットのような見た目のいったって普通のキャラクターなのだ。しかし、そいつが私を見ている・・・多分こんなに奇妙な気持ちにさせる原因はそいつが持っているコーヒーカップにあるに違いない。コーヒーカップ君が持つコーヒーカップには、コーヒーカップ君と同じ顔がついている。怖い!!

この怖さは合わせ鏡をした時にひどく似ていた。鏡の中には鏡があり、その鏡の中にも鏡があって・・・その中の私は私を見ている。私の持つ鏡の中の私がまた、私を見ている。

複製されたものが私に恐怖を与える。複製されたものは際限なく増えてゆくような気がしてくる。みな同じ顔をしている、非生物的だ。しかし生物の根幹を成すあの二重螺旋もまた複製を仕事にしているらしい。この世界は複製であふれているのだろうか?

小奇麗な女性がバスを降りるとき、コーヒーカップ君がいるそのカバンの裏側にもまた彼がいたことに私は気づかされたのだった。その瞬間、私が目を覆いたくなったことは言うまでもない。
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