05 | 2025/06 | 07 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 |
8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 |
15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 |
22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 |
29 | 30 |
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
行間を読めと言うことをよく言われる,特に受験期。文字と文字の間にある文脈を読み取って解釈せよ,文字ではない筆者の主張を読み取れ,ということだっただろうか。
これは非常にいい指摘であると思う。筆者の主張は神がかり的に瞬時に浮かんだこともあれば,検討に検討を重ねたものもある。その人のライフワークとなった文章を,文字面だけで把握は到底出来ない。本当のところは全思考形式まで知って読みたいものだが,そんなことはしていられない。しかし,行間,つまり「そこにある言葉の群」はせめて解釈しよう,となるわけである。
ここで,あまり一般でないがもう一つ行間で読んでみたいものを加えたいと思う。時間である。偉そうに言っても既に実践している方がいるかも,だが…。
行間は↑のようにわざと広げられる時もあるが,大抵はワープロ機能で全て決定される。文字の姿かたちはこんな風にいろいろいじくることが出来るが,行間は空けるだけ,である(しかも上の文章の場合はいらんことしたが故に余計ややこしい)その間に筆者は何をしていただろうか?筆者が同じことを喋る時にはどのくらい間が開くのだろうか?
つながっている文と文が連続して書かれたとは限らない。その間に筆者はもの凄い吉報に触れたかもしれないし,訃報に触れたかもしれない。感情を込めてある文章ほど,行間の時間には何かが起こっているのである。
「休符は最大の音楽である」と言うのはモーツァルトだったか。少しねじっているが,文章にもそういう「スペース」はあり,それが文章をただの主張でなく,時間を含んで筆者がじかに語るようなものに近づけているように思う。
腰の曲がった乱髪のおばあさんが乗ってきて、私の後ろの席に座った。「はぁ、はぁ、よっこいしょ、よっこいしょ」とかなり大儀な様子だった。それだけなら何ということはないのだが、それから五分後、息が整ってきたそのおばあさんは、おもむろに法華経の題目を唱え始めた。
つぶやくような小さな声だが、しかしはっきりと聞こえる声で、「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、……」と延々唱え続ける。面白いのと呆れ返るのと少し不気味なのとで、私はたいそう困惑した。題目以外の何か別の言葉も時折はさみながら、我を忘れたように「南無妙法蓮華経」は続く。バスの中が異様な雰囲気に包まれた。
法然の「南無阿弥陀仏」にしても日蓮の「南無妙法蓮華経」にしてもそうだが、私は「唱える」という行為を重要視する教えに、これまでいまひとつ説得力を感じてこなかった。「唱え」は形式的なもので、経典や教義全体の象徴でしかないと思っていた。しかしあのおばあさんの「南無妙法蓮華経」はそんな生半可なものではなかった。何を祈っていたのかは全く分からないが、とにかく必死に救いを求める感じ、唱えの魔力で事態をなんとかしてやろうという意志が強烈に伝わってきた。
同じ文句を何度も何度も繰り返す。その営みには想像をはるかに超えた力があるように思われる。繰り返す内容がどんなことであれ、無限再生されていく中で、その言葉は言葉以上の威力を持つに違いない。救いとして善きに働くこともあろうが、政治や宗教が濫用すれば悪しきに働くことも十分ありうる。唱えに引き込まれる前に、今一度身構えなければならない。
おばあさんは私より先にバスを降りた。タラップから歩道に下り、よたよたと歩き始めたおばあさんの口元は、相変わらず「南無妙法蓮華経」を唱えていた。彼女に救いのあらんことを祈るのみである。
これほどに美しい風景が並んでいるとついしたくなるのが写真撮影である。やはり良いなと思ったものはずっと残しておきたくなるものだ。しかし実際私が写真を撮ることはほとんどない。携帯のカメラの性能は悪いし、カメラマンの性能も悪いからである。自分が撮った写真はいつも軸がぶれていて、見た風景とあまりに違うので、結局消去してしまう。
上手い写真を撮るには、上手い風景の見方が必要らしい。写真を撮ることを考え、自分の目をレンズにして風景を見るのである。しかしその見方にこだわりすぎると、肝心の風景を目でじっくり見ることがおろそかになってしまうことがよくあるのだという。普通の人にとっては勿体ない話である。
直に見る風景には必ず時間が存在する。つい見とれてしまう風景にはいつも何か他とは違うリズムが流れているように思う。あるいは自分が、流れる風景から勝手に思い描いているだけかもしれない。一方写真はある時点を鋭く切り抜いたもので、そこに時間はない。自分が持った印象が一番強く表れている瞬間が写され、それは同時に強い主張になるのである。
自分の思う写真が撮れないというのは、両者のこういう違いを意識しないで何とかやっつけようとするからなのだろう。「うまく写真を撮る方法」はあっても「うまく見た風景を撮る方法」は有り得ないのである。
泥だんごを小さい時にはよく作った。見立て遊びの中で食事になったり,武器になったり。その材料となる「さら粉」(砂場の中でも一番細かい砂)を篩ってつくったものだった。
最後に作ったのはいつだっただろうか。砂場卒業と同時にもう作らなくなったであろうか。そんなことを砂場を見ながら考えていると,「光る泥だんご」のことを思い出した。
中学時代頃に知っただろうか。単に土に水を入れて捏ねて丸めるだけではない。その捏ねて球体にし,そこに砂の種類を選んで重ねていき,脱水,研磨などの工程を経てつくられるものである。出来上がったものは非常につややかで,珠のようである。2時間から3時間かけて作られるそうだ。
グーグル検索をしてもかなりの数ヒットする。キットや,「泥だんごに適した砂」も売っている。そして日本泥だんご科学協会ANDSなるものも存在する。海外向けに数ヶ国語で書かれたサイトもあった。泥を捏ねて遊ぶ文化がどれだけあるか分からないが,大したものである。
愛好者,コレクター,超絶テクニック保持者,神童様々な人がこの業界にいるらしい。決して大人のマニアックな道楽ではなく,4歳の子どもでも出来ることである,とのことである。でも「それを使って遊ぼう」という発想になかなか出会わなかった。当然つくる手間が念を入れるポイントで,結果できるものがキラキラとしたきれいなものだし,それでいいのだろうが。ただ,そこにある何の変哲の無いものから,たこ焼きや砲弾が出来たあの楽しみというものは,やはりベタベタで泥の色をした,あの泥だんごにだけあったような気がする。
「泥だんご」というところに郷愁を感じることも人気,意外性も人気,それはよく分かる。ただ,一番郷愁の対象となるだろう「見立てる」こと,想像力というか,それはやっぱり小さい時にだけのものなのかな,と思った。
た行の音は、純粋なt音を持たない「ち」「つ」を除いて、おおむね文章の骨格を形作るのに貢献している。
「た」は過去の助動詞、断定の助動詞、或いは男子の名の末尾。「た」で終わる文章はたくさん大量に多量にあり、文章を終えて他者へ引き渡すのであった。
「ち」は「血」「痴」「恥」「稚」。ちょっとしたタブー、あまり見たくないもの、できれば話題に上るのを避けたいもの。であるにもかかわらず、「し」と同様に子音が変化しているために弁別性が強く、日本語の単語に多用される音声であるから、いくら恥ずかしくても発音せずにはいられない。伝えたいけど恥ずかしい、言葉の二面性を代表するかのような音。
(ちなみに、先週書くべきことだったが、日本語には「し」で始まる単語が一番多いようだ)
「つ」は詰まる音。つっかえる音。「つ」で変換される漢字は少なく、日本語で一番短い音かもしれない。音の長さがゼロの促音は小さい「っ」で表される。
「て」は「手」しか対応する漢字を持たず、それ以外はほぼ「てにをは」の「て」であり、文章をゆるやかに流してゆく。
「と」は接続や引用や並立の助詞で、「て」に比べると、一旦文章の流れを遮って展開させる働きをする。
細やかな表現というのは情景描写のみにとどまらず、微妙な気持ちの揺れにまで至っている。そういった作家さんの中でも特に私が心引かれるのは幸田文さんだ。私が評するなど大それたことだが、彼女の文章は日常で感じるふとしたこと、文字にして起こさなければきっと通り過ぎてしまうささやかな感情を丁寧に拾っている、そんな気がする。想像下手の私が「よっこいしょ」と頭を働かせずとも、情景が、人物の感情が、すっと私の中に流れ込んでくるのだ。
これは逆に文章を書く側の「よっこいしょ」のおかげだろう。書き手は自分の作品の雰囲気は分かっている。読み手の頭の中に自分の構想をそっくりそのまま再現させるためには、相当の情景やら何やらを文字に起こさないといけない。このためのひと手間が書き手の「よっこいしょ」なのである。息をのむような紅葉の世界や、秋のちょっぴりセンチメンタルな気分でさえ、文字を介してそっくりそのまま他の人に伝えることは難しい。地味で面倒な「よっこいしょ」無しにには書き手として何も始まらない。そう感じさせる彼女の文章だった。
本格的に寒くなってきた。身にしみる寒さをいかにして表現するか。文学的な一大問題であろう。
私の思う最高の答えは、高校時代に習った一首の短歌にある。
志賀の浦や 遠ざかりゆく波間よりこほりて出る有明の月
新古今和歌集の第639番目に収められた、藤原家隆の歌である。なんとも、よむたびにぞっとする、見事としか言いようがない。
高校の授業では、この歌を「本歌取り」の説明という文脈で習った。この歌は、後拾遺和歌集の第419番、快覚法師による
さ夜ふくるまヽに汀やこほるらん 遠ざかりゆく志賀の浦波
を念頭に置き、主題を借りて詠まれている、ということである。そうすることで一首の中に二首分の情報量と、それ以上の情感を込めることができる。要するに、使うとお得だけれど、使うのはなかなか難しい修辞技巧なのである。
技巧的なすばらしさはともかくとして、この凛とした清艶さはどうだろう。とても言葉による表現がなしうる業とは思えない。夜が更けて、水際から少しずつ凍ってゆく湖面。ピシピシ……という頭痛を誘うような音が聞こえてきそうだ。そしてそこから凍った月が登場する。注意してほしいのは、この月が「氷のような月」ではなく、「それじたい凍った月」であるという点である。水の氷点は零度だが、月の氷点はあきらかにそれよりも低い。さらにこの月は三日月を反転させたような細長い形であると推定され、硬くて鋭い刃物のような強烈な印象をよむ者に与える。