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高校一年の冬、二年生から学ぶ理科の科目選択があった。私たちは一年時に全員化学を受講していたので、文科系生徒は生物と地学から、理科系生徒は物理と生物から、それぞれ選択しなければならなかった。それに先立って、物理と生物の担当教員から、それぞれの科目の魅力が語られた。地学の話は覚えていなくて申し訳ない。

物理の先生は、一本のペンを手に持ち、クルッと回して見せた。

「みなさんも回してみてください。なぜペンは回るのでしょうか。この単純な動きも、実は物理学的なさまざまな力が働いて起こることなのです。」

小道具を使った気味の良い演出に、特段何の準備もしていなかった生物の先生も対抗意識を燃やした。「これちょっと貸して。」と言って、物理の先生からペンを受け取り、彼がやったのと同じようにそれを手に持った。

「みなさん、このようにペンを持って下さい。回しませんよ。」

笑いが起こった。

「さて、みなさんに質問です。このペンは生きていますか。」

 私はこの問いに魅了された。無論ペンが生きていようはずはない。この問いには、「ペンが生きていないということをどうしてあなたは断言できるのか。」「“生きている”とはそもそもどういうことなのか。」という根源的な問題が内包されていたのである。

 私はすぐさま生物を選択することを決めた。生きているとはどういうことか、それを知りたかった。ところがその答えが授業の中で示されることはなかった。細胞のつくり、カエルの発生、遺伝の法則……。ひとつひとつは面白い内容だけれど、それらの細やかな事実の集積から何が言えるのかというと、結局何もないのであった。

 それで私は今もその答えを探し続けているのだ。生命科学の研究室に通い、「万霊の長」のさらに長たる人間たちと様々に交わり、来ては去りゆく季節に触れて自然の息遣いを感じながら、私は常に考えている。

 今日、「ちひさき鳥」がすべて飛びたった銀杏の木の骨格が、何と美しいのかと思った。その美しさは複雑さにある。複雑だからこそ、知りたくもある。
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 感情にも形があるのではないかと思うことがある。人が怒ったり泣いたりすると、顔だけでなく心も普段の形を失い、奇妙に歪んだ姿を見せる。
 心には平静の状態がある。イメージ的には綺麗な球体のような形をしている。心は何事も起こらない日常においては平静の状態を保っており、それが最も自然な形である。よって心はどんな状況になろうと出来る限り平静な状態でいようとする。
 ところが心は思わぬ出来事(勿論それは各人の心で様々である)に出くわしショックを受けると、大きなストレスを抱える。このストレスは心に過剰な力を溜め込ませてしまう。この時心は大きく歪むのである。平静な状態の球体は内からある方向に片寄って力が加わり、普段と異なるいびつな姿に変わってしまう。過剰な力を何とか解消しない限り、心は平静な状態に戻ることができない。しかしながら心がその力を抑え込むのは相当に困難なことである。また器を持たない心そのものが直接外の世界、現実に力を発散させることもできない。
 ここで心と身体の密接なつながりが発揮される。心のストレスが発生すると同時にそれはすぐ身体に伝わり、身体がストレスに対応する反応を起こす。つまり内に秘められた力が外に解放されるのである。こうして心に発生した力はほとんど解放される。また身体は心の歪みを実に上手に表現し、他者への理解を促す。内なる心にとっての最大の至福の一つは外の世界が自分をよく分かってくれることである。それゆえこれもまた、心の平静を取り戻す大きな要素となる。
 この時心は、一部に異様に力が加わり張りつめた形から段々と角がとれて丸みを帯び、やがて元の球体へと戻る。おそらく心が平静な状態の形に戻るまでの過程は、身体が反応してから元に戻るまでの過程とほとんど時間を違わず対応しているのだろう。心の張りが身体中を貫き、突き動かす原動力となっているのである。そして身体の普段と異なる動きは心がどんな異状にあるのかを忠実に表しているのである…

ということを、ぶつかりそうになったバイクに乗っていたお爺さんの顔を見て思った。しかし例えば怒った時の心の張りつめた形は想像しやすいが、悲しい時心は一体どんな風に張りつめた形をしているのかなかなか想像がつかない。球体がどう歪んでいくのか、じっくり観てみたいものだと思ったのだった。

 この間ひょんなことから炭火を起こして芋を焼きました。薩摩芋は案外きれいに焼けるものです。ほくほく,しかし皮はちょっと焦げてしまい,でもかえってクリスピーでおいしい,そういう状態。別に気取ってかまどを使ったり,盛大に組み木をしたりとか,そういうことはありません。鉄板(拾った)の上に新聞と木炭を置いて,火をつけた,それだけです。後は芋を置いてほっといただけです。

 練習途中のイベントだっただけに,時間の余裕が無く,置き火になったところで芋のいくつかを放置して練習に移りました。練習後,既に3時間は経っていたのですが,出てきてみるとまだ火はついていました。芋はよくよく焼けていました。食べられないほどクリスピー。

 しかしよく持つものです。十二分に暖かいんです,3時間後の炭火は。もの凄く便利です。ほっといたのに暖かいんですから。我々もはや火鉢なんぞ使いません。炭火とは遠足の代名詞,林間学校の懐古でしかありません。しかし炭火は便利です。今すぐ炭火の実用化を。

 …と考えても,今の生活では炭火は使えません。練炭自殺はもはや茶飯事ともいえるんですから。今の生活とは「断熱」の世界でございます。外から入るものは拒み,内からでていくものも止めるんでございます。

 火鉢が使えた家というのはある意味隙間風が通るかでした。それは寒いんですが,火鉢を使う空気の余裕があったわけです。今は完全密閉断熱機構の家です。風一つ通しません。それはそれで暖かいものですが,火鉢は使えません。

 「現代は密室の中にある」というのは飛躍ですが,そういうイメージをいろいろ過ぎらせることができるような情景が,炭火の向こうに揺らめいて見えました。これだから現代人は息苦しい生活をしている,というようなこじ付けに走りはしません。しかし,「古き良き」とかを語る以前に,すっかりシステムが変わってしまったことを自覚することが必要だろうな,と思った次第です。

ま行を発音するには、まず口を自然に閉じた状態から、テキトーに息を押し出し、テキトーに鼻に抜けさせたりもし、テキトーに声帯も震わせ、適当に口をあける。
他人を小馬鹿にしたようで、表裏のある、掴みづらい性格の音。

「ま」は良い意味で「真」を表すかと思えば、同時に悪い意味の「魔」をも表す、変幻自在の音声。ゼロたる「ん」の音からやおら口を開いて「ンま」と発音。表だと思っていたらあっという間に裏の世界へ導く魔性の音。

「み」は不在たる「未」であると同時に、存在たる「身」「実」。見えると思ったら見えない。見えないかにみえて見える。そんなものに人間は魅入られる。

「む」はもっと強い不在。「無」。口を閉じる子音から最も狭い口の母音への以降は「ん」につながり、ゼロを表す。助動詞の「む」は未だ実現せざるものの推量・意志。

「め」は「目」。視覚に最も頼る人間が唯一絶対に見ることの出来ない盲点。「見えない」の「みえ」が約まった形かもしれない。

「も」は「喪」。未然の「む」と反対に、かつて有ったものが無くなっていまっていること。もう、何もかも。

 最近寒くて震えが止まらない。来年になれば一体どうなるのか、と今から要らぬ心配をしてしまう。
 ところで私は時々、寒さによらぬ震えを起こすことがある。素敵なものを見た、素敵なものを聞いたなど、とにかく「素敵なもの」に触れると本当に身体が震えるのである。
 一体どうなって震えているのだろうか。身体が普段の動作と異なる動きをとるのには二つの場合がある。身体自身が何かを感じ取ってそうなるのが一つ。そして心が衝撃を受け身体を動かしてしまうのがもう一つ。
 今回の場合はどちらなのかというと、私は後者の方であると思う。前者であるとすれば、素敵なものを何度も聞けば、その度に私は何度も震えるはずだがそうではないからである。段々衝撃は薄れていき、震えもなくなってしまう。こうしたいわば末期的な慣れは、身体より心の方がずっと起こりやすい。普段心であれこれ考えはするのに、身体の感覚に対しては比較的無頓着であるので、かえって身体で何かを感じ取った時はいつも新鮮な気持ちでそれを受け止めるからである。
 衝撃を身体中に響かせるのも、衝撃を失わせていくのも共に心の働きである。こんな生意気な心の働きについて少し思い付いたことがあるけれど、それは来週に回します

 大根を買おうとしました。一本198円。下宿生で忙しい身,そうそう一本丸ごとを使い切るほどの余裕はまだありません。そんなわけで買うのは半分カットのもの。葉っぱに近いほうは120円。下のほうは85円。ちょっと普段より高いなあ,それはさておいて下の半分を購入しました。

 そこでふと疑問。何故違う。同じ大根の上と下で何故40円違う。
理論的にはどういうことに根拠がありそうか,調べてみました。大根は葉に近いほうは甘く、地に深いほうは辛い。それだけ。甘いとサラダとかにできるし,辛いと大根おろしにしたりできる,という。

一般には甘いものの方がそりゃ価値が高いのでしょうね。きっと。サラダに使えると便利ですし。しかし,それは葉のぎりぎり下部分と,根っこの先端を比較したら言えるでしょうが,「上半分の一番下」と「下半分の一番上」では差は皆無なわけです。それで40円を差につけております。貨幣価値というものは難しいものです。

医療保険の話。アメリカを例に取りますと,中指切断と薬指切断。中指を治すなら60000ドル,薬指なら12000ドル。どっちとりますか?というのが保険に入っている貧困層に対して示された選択肢だった,という事例があります。その他,普段使うからだの部分ほど金額は跳ね上がります。全うな感覚を持った人々なら必ずや違和感…いや嫌悪感を感じるであろうこの仕組み。大根の甘い辛いで済んでいた話が,ここまで来ると生々しい。

使用価値という観点で見ているわけで,すべてが道具化しているわけです。それが貨幣に出るとこういうことになるのですね。それ以来大根を見ると切断された指を思い出します。

感じる理不尽さと嫌悪感を失わないでいることが,ここに潜む問題点を観る最大のモチベーションになるように感じます。大根でやってるんだから人間でも同じ,そこを大いに疑問視できます。人体とは別の倫理がある,と言われそうですが,同じです。
 

ハ行はその昔、p音で発音されていて、それがf音を経てh音に落ち着いたという。本当だろうか?

「は」は「波」。光は粒子としての性質と波動としての性質の両方を持ち合わせていると聞いたことがあるが、「有」たる「う」と相携えて発動するこの世の存在原理が「は」なのかもしれない。「は」の子音は無声で実体が見えないにもかかわらず、気合いを入れた「は!」の声にはとても力強さがこもっている。

「ひ」は「火」「日」「非」。人間が触れることのできない存在。「は」と同様、無声によって暗示される不可侵の力。

「ふ」は「風」。「波」は媒質があれば四方八方に伝わってゆくものだが、「風」は一方向に流れてゆく。意志を持った空気の動き。

「へ」は「屁」。どうしてエ段の音には碌でもない単語ばかり割り当てられるのだろう。

「ほ」は「帆」。見えない力を見える力に変換する装置。或いは「歩」。

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