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9/2

今日、大阪で行われていた世界陸上が閉幕しました。
印象にのこっているのは何と言ってもタイソン・ゲイ(アメリカ)。強い。強かった。
他のスポーツについてもそうですが、一流の選手の動きは美しいと思いませんか。たまに変わったフォームで走ったり跳んだり投げたりするトップ選手もいますが、力強さとか迫力とかだけでなく、美も見出せそうな気がします。
しかし、大会にでたどの選手も、これまでに大変な苦労をし、困難を乗り越えようとして、努力を重ねてきたのであろうなぁと考えると感慨深いです。

ところで、昨日、今日は、私の通っていた高校で文化祭があり、多彩なパフォーマンスや劇などが繰り広げられ、訪れた多くの人々を、在校生を、楽しませていました。本当に感動的だった。しかしこちらも、裏を返せば、生徒たちからすれば、紆余曲折を経て本番を迎えたのだろうと思います。(自分の体験も踏まえて)

陸上にしろ文化祭にしろ、熱い気持ちというのは、年齢や国籍など無関係に、人の心を動かすのだなぁと思いました。

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9/1

過去二回掲載して頂いた時に「である調」であった文体を「ですます」調に変えます。前者には何処か高飛車な印象があり、こういった駄文を読んで頂くのには何か合わないなあと思ったのです(※あくまで個人の感想です。)ユーモアも使いにくくて。実はそれ以前に「天声人語みたいな感じ」と聞いて書いたら天声人語みたいな「である調」になった、という短絡的な裏もありますが。

 

もう一つ、五味太郎さんの本を読み返したというのも大きな理由です。五味さんは特に絵本で有名ですが、エッセイも面白いのです。力の抜け加減や物事の見方が何とも素晴らしく、その妙に近付きたいと、形から(形だけ)入ってしまったという次第です。五味さんの代表的エッセイに「大人問題」があります。現代の、特に人間関係や教育に於いての諸問題(とされているもの)について、解決しようと頑張ったり、悩んだりする大人の側にある問題に気付いてるか?というのが強引にまとめたスタンスです。かなり自由に飾らないで語られます。ウィットとアイロニーに富み、でもねちっこくない、良い意味でひねくれた文章です。

 

文章も、絵画や音楽と同じく創作活動です。それ故、その方式が印象に与える影響を考えるのは有効でしょう。ですが、それが四角四面なものばかりでは表情も表現も台無しです。もちろん小手先でウケを狙うのはナンセンスですが、内容と、それに見合う表現がバランスの下にあれば、文章は伝達手段に止まらずエンターテイメントとなるでしょう。

 

音楽にはアド・リブが活かされる場合がありまして、お固い演奏者は苦労と焦燥に駆られるのですが、それでも例や先人の演奏をコピーするだけではどうも物足りない。楽理、定石から少し逸脱した所に味が出てくるように思います。文章もフォームや常道から逸脱できれば表現がまた広がる。五味さんのエッセイからは、特にその「文筆家を名乗る人は書かない表現」からはそんなことの胞芽を得た気がしました。

 今日で八月も終わりですね。世の小中学生たちは今ごろ夏休みの宿題に追われているのでしょうか。ふと暦を見ると、今年は九月の一日二日が土曜日と日曜日。始業式まではもう少し暇がありそうです。

 ところで、思い出すのは自らの小学校時代。昔は土曜日にも学校があったのだよ、なんて今の小学生に聞かせたなら彼らは好奇の目でこちらを見るだらうか、なんて想像すること自体がもうオッサン。しかしながら、ジェネレーションギャップは確実に広がってきているのでありまして、それが証拠に彼らは、昔は土曜日にも学校があったのだよ、という事実を知らないのです。多分。

 土曜日に学校があった頃の、午前中で放たれるあの解放感が好きでした。家に帰って吉本新喜劇か何か見ながらお昼を食べて午後はまた友達の家に遊びに行くといういつものパターン。懐かしいなア。土日の二日間がまるまる休みになってしまうと、もはや「休み」という感覚すら存在せず、ただただ虚無の時間が流れてゆくばかり。結局ダラダラしてしまって、私は今でもあまり週休二日を良く思っていません。

 なんて小言を言っていたって、見方を変えれば、休日に何もできず寝ているだけの私が悪いのでありまして、いまこの歳になってあの頃よりも幾分可塑性に富んだ生活をするようになって、急に一日ぽっかり予定が空いたりしたときに、自分の「休みベタ」さに嫌気がさすこともあります。いまの小学生には、二日間の休みを存分に生かして大いに遊び、また、そうしてリフレッシュした頭と身体で大いに学んでいただきたいものです。

ある日の夕方、私は一日の疲れの中にまどろみながら、電車に揺られていた。

ふいに、私の向かいに座っていた小さな男の子が声を上げ、私の背後を指差した。私は思わず振りかえった。そこには、静かに、しかし威厳をたたえて山際に沈みゆく、大きな太陽があった。男の子はとなりにいた父親をトントンとたたいて言った。

「ねえ、あの山のところにいる人たち、とってもまぶしいだろうね。」

そんな息子に父親は教えた。

「太陽はね、あすこの山よりももっと遠いところにあるから、あすこにいる人も僕らと同じように見えてるんだよ。」

 

 私は何だかがっかりした。父親は確かに正しいことを教えたけれど、「お日さまが沈む場所にいる人々」に対する男の子の素直な同情は、無情にも摘み取られてしまった。幼いころにはどの子も持っているはずの「詩人性」はこうして失われていくのだろうか。

 しかし、そもそも、どうして私は「父親は正しいことを教えた」と思ったのだろう。山の向こうがどうなっているか、実際に「行って見てきた」わけではないのだから、父親にも男の子にも、そしてむろん私にも文字通り「本当のこと」は分からない。その意味では、男の子も父親も「想像」でものを言ったに過ぎないのだ。男の子が見たものだけを根拠に「想像」したのに対して、父親は知識や経験を根拠に「想像」した。違いはそこだけである。

 知識や経験を根拠に想像すること。これは私たちが普段から無意識のうちに行っていることである。太陽系の仕組みについての知識や、山の上から夕日を見た経験があるから、私は父親の発言を正しいと思った。見えないものを見る力。人間の想像力のなせる業である。

 想像力を持つことは素晴らしいことに違いはない。しかし、あまりに豊富な知識や経験に邪魔されて、本当は目の前で見えているものを見失ってはいないだろうか。我々から知識と経験を取り除けば何が残るのか。それは「いま見えているもの」に他ならない。まさに、「お日さまの沈むところの人たちはまぶしいだろう」と言った男の子の感覚そのものである。彼にとっては、太陽は文字通り山に沈むのであって、山にいる人がまぶしいだろうというのはきわめて純粋な想像ではないか。この純粋さを我々は忘れてしまってはいないだろうか。知識や経験に頼る前に、まず目の前にあるものをしっかり見よう。自分にはいったい何が見えているのか、確かめ直してみよう。結果的にそれが錯覚だったとしても、決して踏み外してはならない大切な手順である。

 

そう考えている間に、電車は駅に滑り込んだ。真っ赤な太陽は、コンクリートの壁に隠れて見えなくなってしまった。

「なくなっちゃった……。」

寂しそうに男の子が言った。

原因はわかりませんが、8月28日分の記事が正しく掲載されておりませんでした。本日分とあわせて掲載しましたのでどうぞそちらもお読みください。申し訳ありません。

 私は幼い頃「戦争」にドキドキした。ゼロ戦や大和がかっこいいからではなく、防空壕・赤紙・配給・空襲・・・そんな一般民衆の苦しみそのものに心惹かれていた。現代から最も近く、最も異なった世界を(不謹慎極まりない話だが)確かに「好き」だったことを覚えている。そのため、いかにも可哀想な戦争の本を好んで読んだ。
  しかし、ある1冊の原爆の写真集に出会った時のことだった。当時小学校低学年であった私は、言い尽くせぬ陰惨さに心が締め付けられ、初めて戦争が空想の世界では無いことに気づかされた。「好きだと思ってごめんなさい。戦争は・・・恐いもの。」その本を図書館へ返却することすら恐ろしく、これをきっかけにずっと「戦争」を避けて続けた。終戦記念日はテレビを見ない、授業で習った日にはどうにか気を紛らわせる、今急に日本で戦争が始まったらどうしよう。「戦争」は私にとって、善悪も倫理も歴史も何も関係のない、ただの「恐怖」の塊だった。
 次の転機は高校一年生のある日、戦争を体験した人の声を詩を耳にした時だった。 その時、私の異常なまでの戦争への恐怖が「死んだ人の姿がキモチワルイ」という考えのためであったことにようやく気付き、自身の愚かさにぞっとした。なんと浅はかな・・・愛する家族・友達のそんな姿を気持ち悪いなどと思うはずがない。「ごめんなさい。」私は前以上に申し訳なくなって60年前に謝罪をした。
  戦争を知らない世代だけの世の中がやって来る。私は、やはり想像にしか過ぎない自身の中の「戦争」に、これから幾度と無く謝ることになるのだろう。けれど、想像力をめいっぱいはたらかせて、まずは向き合おう。そう思った。

 ライオンの赤ちゃんの可愛らしさは神がかっている。いや、神がかってるというより、多分神様によるのだろう。

 ライオンはもともと人間に狩られるような動物ではなかったはずである。だからライオンの赤ちゃんが人間に狩るのを躊躇させるほど人間の眼に可愛らしく映る必要などないのだが、どうみても鳴き声も何もかも可愛らしい。私に母性本能はおそらくないから、ただライオンの赤ちゃんは可愛いのだ。また狼(だったか?)が人間の双子の赤ん坊を育てたという事例があるらしい。狼にも人間の赤ん坊が可愛らしく映ったのではないだろうか。赤ん坊というのはどうやら、餌として見る場合を除けばどんな者にも可愛らしく映る美しさがあるようである

 この美しさがどんなものかと表すのは難しいが、重要なのは全く関わりをもたないような別の種の生き物にさえも赤ん坊はその美を発揮できるということ、つまり赤ん坊の可愛いらしさはもともと他の種にも適用されうる高い応用力を持っているということである。このことから私は赤ん坊は自然淘汰の過程で徐々にその可愛らしさを洗練したのではなく、秘訣を知る何者かに可愛らしさを始原より授けられて、どの時代にも愛されてきたのだと思う。そしてそんな秘訣を知る者とは、正に神様しかいないのではなかろうか。

 ということで私は一応神様を信じている。いたらいいなぁ、という程度に。可愛らしさの秘訣もできれば知りたいものだが、それはなかなか難しそうである。

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