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孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
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大学生の長い夏休みももう終わりにさしかかっていて、さて、本格的に秋だな、なんてよくわからないことを思う今日この頃であるが、気温はというといまだに下がってこないし、はやく涼しくなれよ、と無生物に対しての苛立ちが募ってくるかと思えば、急に晩だけ寒くなって風邪をひいたりしてさらに嫌悪感が増してくるのだけれども、仮にこの暑さというのは人間のなしてきた種々の行動によって引き起こされたものであると考えると、ありがちな罪悪感あるいは開き直りがわが身に生じてきてどうもぎくしゃくしてしまうので、何かいい案はないだろうかと考えるふりをしてみたのだが何の進展もない。

都会を離れて人口密度の小さいところへ行くとだいたい緑が多くあって、そこは、やはりと言って良いかわからないけれども、幾分か涼しいのだが、陽のよく照る日など特にアスファルトで覆われた道路は高温になるので、ムアっと、熱い空気に下から襲われて、熱い方が空気は膨張して密度が小さくなるし軽くなるはずだがどうしてか重さを感じるのは熱い空気であるなぁ、とか、やはり舗装されたところはダメだね、これがヒートアイランド現象の原因の一つと考えられるのは当然じゃないか、などといい加減なことが頭に浮かんできてしまう。

今年私にとって少し新鮮であったのは、舗装された道路たるものがいかに尊いものかということを今までとは違った感覚でとらえられたということだった。熱い空気を生むし、それにドウロコウダンという言葉にネガティブな印象を抱いていることもあってか、道路というものに軽とか蔑の念を抱いてきた、というかそれについて考えたことがあまりなかった気がするが、日本中に張り巡らされているのであるよ!道路は!都会を離れて山奥へ、なんてことを簡単に思いついてスッと実行できるのも道路あってのことではないか?などと思えてくるし、こんなところにまで道路があるなんてこれをつくった人はえらいことをしてくれたものだなぁ、と土木工のイメージまで浮かんでくる始末で、多少、ばかばかしいかなという気もしながら、そして道路のために野山が切り開かれたのだというところに無惨さのようなものを感じたりもしながら、えらいものだ、という感慨深さに支配されてしまって、結局暑さの問題は先延ばし、他人事になっている。

他人のため、次世代のためになりたいとは思っても、まだまだ自分のことしか考えられないでいるのだ。

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 「心」という漢字を見ていると、不思議な気持ちになります。何とも曖昧な、ばらけた一字。心臓の形から作られた象形文字だとか。一画目は大静脈ね、などと考えると納得がいくようないかないような。

 

でも、私が不思議な気持ちになるのは、これが「こころ」を示すところです。「こころ」。一体「心」が指す「こころ」とは何か、と考えると眠れなくなりそうですが、それでも何かこう掴めない、揺れ動く、という印象のある「こころ」。それを示すのに適当な一字ではないでしょうか。ためしに一度「心」と書いてみてください。次に、三度ほど「心」と書いてみてください。三、四画目などは特に、一つ一つ味が出てくるでしょう。「国」とか「命」とかの字はどこかがっちりした字で、何か頑固にすら思えてきます。それに対して「心」。柔らかい感じのような気がします。

 

 「心を一つに」というのはよく聞くフレーズで、特に大人数で何か同じ作業をする時にまとめる側の人間がよく言います。しかし、字面の上でもなかなか同じものが書けない「心」が一つになどなるのでしょうか。個人一人の中でも「心」は一つに留まらないでしょうに。「心を一つに」は「不可能なことをとにかくやれ」という本音を暗喩しているのかとひねくれたくもなります。同じようなものに「心を乱さず集中して」というフレーズもありますが、乱れない「心」など、「心」ではありません。

 

 ちなみに、この「心」という字は学年別配当によると小学校二年で教えるそうです。残念ながら経験したことを覚えていませんが、何と言って教えた、教えているのでしょうか。ひたすらに心、心、心、心、心…と書き取らせるのでしょうか。それでも小さい、字に慣れない人が書いた「心」は、むしろ美しいようにも思います。大人になるとこの文章のように明朝体ですから。たった四画のこの字は、いろいろと含蓄のある字です。

本日、孝太郎第10号を公開しました。
是非お読みいただきたいと思います。

 先々週の続きではないが、吉本新喜劇というと私は特に島田珠代という人の芸が好きである。
 目を付けた男性にくねくねしく擦り寄っては股間を弾く仕草で「ち~ん」とやる、その動きのキレといったら何度見ても(いや、むしろ何度も同じものを見せられるからこそ)笑える。これはもう理屈ではない。
 そんな彼女の定番ギャグのひとつに、言い寄った男性から突き飛ばされて壁に正面衝突、倒れ込んだ後むくっと起きあがり「男なんてシャボン玉~」というのがあるが、吉本新喜劇がアメリカ公演をやった際にこのギャグをやると、アメリカ人には女性虐待と受けとられ、冷ややかな反応しか返ってこなかったらしい。
女性虐待だと言われてしまっては「理屈がない」ではどうもすまされなくなってくるので、我々は決して女性を虐めてげらげら笑っているのではないという方向で弁解をしておいた方がいいだろう。
 私の見解では、この場面において優位に立っているのはむしろ女性である。何でも力で解決しようとしがちな男に対する、女の精神性の勝利である。「男なんてシャボン玉~」の後は全員による“ズッコケ”で終わるわけだが、吉本における“ズッコケ”はボケた人間に対する「降参」あるいは「畏敬の念」に近いものを示していると私は思っている。
 いやはや、こういった見解は穿ちすぎているかも知れないが、何度も同じものを見せられているとこれぐらいのことは考えずにいられない。

参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E7%94%B0%E7%8F%A0%E4%BB%A3

 「出来ない」と思ったときには、全く上手くいかなかったことが、「出来る」と思ってやってみると、案外すんなりと上手くいくことがある。一種の自己暗示といえば、確かにそうかもしれないが、「出来ない」と思いながらの行動で自分の力を精一杯出せないのは確かではないかと思う。

 そもそも、人間はどういうときに「出来ない」と口にするのだろう。自分自身の能力から未来を見越して判断しているのだろうか。だが、一日目にできないことが二日目にどうなるか、一週間でできないことが一年後にどうなるか、未来を真に予測するなどできるはずもない。

 結局のところ、「出来ない」、その言葉を口に出して、自分の限界を決めているのは自分自身なのではないだろうか。確かに、人間には向き不向きがあって、他人の倍以上の努力をしなければならないこともあるだろう。しかし、その努力を続けることのできる人だけが、自分の可能性を広げることができるのだと思う。

  私事ではあるが、明日は祖母の命日である。亡くなったのはもう十五年以上昔の話で、当時ほんの子供だった私が覚えているのは、お葬式で親戚のお姉ちゃんが本を読んでくれたことと、化粧を施された祖母の姿だけである。その記憶があまりにも遠すぎて、今でもまだ、またどこかで祖母に会えるような気がしている。

 ふと、魂というものがあるのだろうかと、そんなことを考える。私にはいわゆる霊感はない。昔から輪廻を信じてはいるが、こうも慌しい生活を送っていると、魂の世界の存在がひどく疑わしくなってくるものだ。

 霊という概念はいつ生まれたのだろうか、埋葬という行為が始まったその時に、アニミズムが始まったその時に。もしくは、霊の存在を知った人から広まったのだろうか。いずれにせよ、そこには死せる者と絶対的な自然への畏敬の念があった。そして、無事に生きたい、災いから逃れたいという生きる者の欲望があった。

 魂は時に、我々を常に監視する規範となり、時に永久に続く愛をもたらす。精神世界を信じるがゆえに宗教戦争が起こるのもまた事実である。しかし、CやOやHのかたまりとして(浅識な表現で申し訳ない)1回きりの活動期を経て土へ還る。ただそれだけの物体の、家族になり友達になり恋人になり親になるのだろうか、そして私もまたただそれだけの物体なのだろうか。やはり、私は魂を信じたい。魂があったらいいなぁ、と思う。魂の存在によって、人間、自然、自身を大切に思える。

 異なる価値観から考えたならば、これはただの現代人の、というより世間知らずの子供のエゴに過ぎないかもしれない。けれど、それでもいい、魂を信じよう。私は、もう一度祖母に会える日を待っている。

 昨日の晩御飯は冷凍ピザと野菜サラダであった。親の帰りが遅かったために、そんなありあわせのもので済ませたわけである。

 それにしても食べる前にじろじろ眺めたただのサラダ、ある角度から見ると猛烈な気配を漂わせる。きゅうり、トマトはさしたることはない。しかしレタスが違う。書道に用いる太い筆で豪快に塗りたくったような荒々しさで鮮やかな色彩を放つレタスは、不丁寧にちぎられたために皿の囲いに収まりきらずはみ出して、こちらにずいと迫りくる。

 もう少し部屋が暗かったら、私が几帳面にちぎっていたら、見る角度が違っていたら、皿が平らだったら、それはただのサラダであった。しかし今回微妙な条件がそろって、並々ならぬ凄みをほこっている。

 摘み取られ運び出され食われる寸前にある、とっくに死んでいるはずの物言わぬレタスは、生き生きとして、原始的な力強さを感じさせた。食う者へのささやかな抵抗だったのだろうか。

 だとしたら効果はあった。今思えばその時、気分の沈みがちであった自分はどうも力が抜けきっていた。一方レタスは微妙な条件が全てそろったまたとない機会を得て、実に生き生きとしていた。ものを食うというのは、生きる者が生きるために食うことである。ならば、むしろ食うのはレタス、食われるのは私であるべきではなかったのか。

 今思えばそんな気もしてしまう。ただのサラダに私は今も圧倒されている。しかしサラダと面していた時の私は何か考える余裕もなく、少しギクリとした後居座りを直してせっかくの条件を台無しにし、ただの死体に戻ってしまったことを確認して、一安心しながらサラダを食ったのだった。

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