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先週、プロ野球、パ・リーグの全日程が終了し、セ・リーグも残すところあと数試合となりました。長い長いペナントレースを終えて選手の人たちはどんな思いを胸に抱いているのでしょうか。
野球ファンたる私は、今年も大いに楽しませてもらいました。特にセ・リーグの終盤の首位攻防や、パ・リーグ楽天の山崎武司選手の活躍などが印象の強いものでした。(まだ終わってはいないですが)
そういえば、シーズン中、ヒーローインタビューなどで「これからも、楽しみながら、声援にこたえるれるよう、精一杯頑張ります!」といった感じの言葉を選手の口からきくことが何度かありました。
好きな野球が職業にできるなんてあの人たちは幸せだなぁ、と小さいころ思ったりしましたが、いま思えば彼らは日々大変なトレーニングをし、大きなプレッシャーに押されながら、必死で戦っているひと達なのです。(実際に見たことはないですが。一度見てみたいです。)
しかし、そのような生活がほんとに楽しいのでしょうか?
一見過酷な世界に身を置きながら、楽しいからやっている、という人はスポーツ選手に限らず見受けられます。私の身近なところでいえば、学者(研究者?)なんかがその例になるかもしれません。
学者と呼ばれる人の生活であるとか、そういう人たちの属する世界とかがいかなるものかということについては、正直に言って私にとっては知らない部分が多いですけれども、なかなか大変な世界には違いないように思われます。
ところが教員の方はというと「なあに、好きなことを楽しいからやってるだけだよ」といったふうにさらっと言ってしまったりします。(カッコいい!
ところで、音楽をやっている友達が、音楽を楽しむと言うことがあるけれど、音楽をやっているときのあの高揚感のようなものを楽しいというのだよ、みたいなことを話したことがありました。
私も音楽が好きで、演奏する機会もある人間ですので、この高揚感のようなものというのはよくわかります。気づけば、いま上にあげた例をみると、共通して、一種の緊張感のようなものが「楽しい」が生まれるところには存在する気がします。どこか張りつめた空気の中で、自分を高める、あるいは何かを完成させる、そういう過程の中に「楽しさ」は宿っていて、いつかふとした瞬間とか、これまでをふりかえったときとかに、「あぁ、楽しかったな」と思う、そういうものである気がします。
当然これは特別な世界の人たちに与えられた特権ではありません。平凡な一学生である私の日常にも、楽しむということがあるはずです。
受験勉強だって、生きていくために働くことだって、決して「楽」なことではありません。でも我々は乗り越えていかなくてはならない。
一度立ち止まって、自分のなしてきたことを見つめてみて、「楽しかった」、そう思えたとき、それは自分が、それなりに頑張ってきた証になるのではないでしょうか。
そして、野球にしろ、学問にしろ、音楽にしろ、そしてあるひとりの人間の生きざまにしろ、精一杯やって楽しんでいる姿は、それを目の当たりにした人にその楽しさを伝染させ、楽しませていくのではないでしょうか。
普段よく使う「楽しい」という言葉とは少し違った意味での「楽しむ」ということについて少し書いてみました。
十三参りの時に、好きな漢字を一字選び書けと言われ、「優」と書いたことがあります。最近は自分の成績表に有るかを案じる対象となりさもしいのですが、当時は「優れる」「優しい」というように、一字でニュアンスが広く、自分が目指したい姿を示しているということで選んだのだと思います。
一字でインパクトのある漢字としては六十四画の漢字(表記不能:興を4つ、または龍を4つ)や「凹」「凸」「互」(平行線と角度の問題になりそう)などいろいろ勝手に挙げているのですが、最近思うインパクト漢字は、やはり「躾」です。これは国字だそうです。日本独自。「身」を「美しく」すると言う順で書いて「しつけ」。非常に理念によって創られたの感があります。どこかそういう教育を行ったり、作法を定める分野で創られたのではないでしょうか。文字の形としては明らかにアンバランスな「躾」。でもそんなことは気にせず使われています。
しかし、「しつけ」の実情は「身」を「美しく」するものでしょうか。子どもが世間で恥をかかないために、一人の人間としてやっていけるように、というのが「しつけ」の目的として挙げる人が多いかと思います。でも、後者の名目であっても「しつけ」で行われるのは主には礼儀作法、及び「他人に迷惑をかけない」ための所作。同じ人間としてやっていくべきものであっても食事を作ったり友達を作ったりすることはあまり考えに入りません。食事のマナー、友達に嫌われない、というのは入りますが。
要するに世間に適合させることが「しつけ」なのです。そう考えると「躾」が国字なのが納得いきます。身を美しくなどはやはり建前。現に、「しつけ」の名の下に時に暴力がふるわれますし。加えて、先輩をしつける、兄をしつける、などは絶対に有り得ないシチュエーションです。しつけるのは大人=世間の先輩、しつけられるのは子ども=世間の後輩という図式です。「世間」という流派の中での狭い一本道です。さらに、ペットの「しつけ」ってものもよく聞きます。トイレで便をさせる、などを挙げて。子どもとペット、扱われる次元は同じです。同じ目線で「しつけ」なのです。
「躾」。美しい理念のにじむものですが、どうも空想的、現実乖離的で、字のアンバランスさがそれを反映しているように思えます。
久しぶりに大学に行ったら、大きな建て替え工事をやっていた。大学のキャンパスというのは、いろいろな時期に建てた建物があちこちに点在しているため、結構頻繁に工事というものをやる。
今度はここの建物か…。その建物は、私も週何回か授業を受けていた棟で、真夏でも幾分か涼しかったり、遠くの理系の研究室から微かに化学薬品らしき匂いがしたり、流石に建て替えられるだけのことはある、有り体に言ってしまえば古臭い建物だった。なのでまぁ建て替えられるのも仕方ないなと納得したわけである。
しかしながら、この「古いものから順に新しくなってゆく」という秩序を無批判に受け入れても良いものなのだろうか。しかつめらしく黄色と黒の縞々に囲まれた棟を見ながらそんなことを考えた。遠くヨーロッパの多くの都市では景観の保存ということに大変力を入れている、という話はよく聞くところだ。「新しいものは新しく、古いものは古く」と、そう単純には行かないだろうが、日本式の新しい方へ新しい方への感覚でゆくと、時代というものが過去から未来へ一直線に進んでいるような、そんな思考法に陥ってしまうのではないか。歴史はところどころ曲折し、また思わぬところで繋がったりするからこそ面白いと私は思っている。大体、一直線の新しさなどすぐ行き詰まってしまうに違いない。
適切な喩えになるかわからないが、地球の大気は地面の方から、つまり下層から温められるために、温かい空気が上昇して対流が起こっている。これに対して海水は水面、つまり上層から温められるために対流はあまり起きないのだという。つまり何が言いたいのかというと、大気のような歴史の進み方もあれば海水のような歴史の進み方があってもよいのではないかということである。無理矢理なアナロジーではあるが、歴史的な景観や建造物に感じる雄大さや包み込まれるような感覚は、どっしりと構える海のイメージにどこか通じるところがあるかも知れない。
最近、兎角眠い。大学への通学にかかる約四時間は、ほぼ全て睡眠に充てられているといっても過言ではない。本当はその四時間を読書等に充てたいのだが、立っているときはまだしも、空いている席に座ったが最後、何をしていようが、いつの間にか眠りに落ちている。
そもそも、睡眠は何の為にあるのか。睡眠不足になると、身体が重く感じるので、睡眠は身体を休息させるためのものという印象があるのだが、実際は違うようだ。19世紀初めに、犬を2週間以上起こし続けていると、どのような変化があらわれるのか、という実験を行ったところ、269時間起きていた犬の脳細胞は壊れてしまい、場合によっては死滅してしまったという。勿論、睡眠不足は身体に悪影響を及ぼすが、睡眠は脳の休息のためのものであるのだ。
眠たいと思っていなかったのに、いつの間にか眠ってしまうのは、睡眠不足である場合、自覚的眠気と脳波からみた客観的眠気の両者が、かなり乖離してしまっているからであり、また、日中にも眠くなってしまうのは、活動と休息のリズムが不規則であると、脳内の生物時計の25時間という周期をリセットしにくくなり、24時間周期のリズムで生活できなくなってしまうからのようだ。
睡眠が大切であるというのはわかっていたものの、脳細胞にかなりの影響を与えていることがわかると、睡眠不足が急に恐ろしく思えてくる。20歳を過ぎると、脳細胞は死滅していくのみで、二度と増えることはない、という話も耳にしたことがある。取りあえずは、夏休みですっかり不規則になってしまった生活リズムを元に戻そうと思った。
私は焦っている。筆が(シャープペンシルが)進まないのだ。いつかの彼のように、私の前にも小林という名の教祖が現れはしないかと他力本願になったりもする。(今ふと良い子のもとにしかサンタクロースは来ないよ、と言われた気がした。
部屋を見回してみてもあまりの平凡さに苛立つだけだ。月を詠むにしても、今夜の月は気高すぎで・・・と尻込みしてしまう。(良い言い訳だ。)
日本語をしぼり出そうにも、出てきたそばからするするすると手の間すり抜けて行く。まるで、ドジョウすくいだ。捕まえてもと思ってもすぐにポチャン・・気付けば手の届かぬ下流に逃げている。仕舞いにはこの紙の上の文字までが、くねくねとうごめきだす。単語をつなぐ助詞が関節のように、一文に流動性を与える。頭と尾っぽを入れ替えても、何ら論理が崩れない日本語のいい加減さにはプラナリアさえびっくりだ。ひらがなの描き出すカーブとカタカナの古臭さと漢字の迷路に、酔ってしまいそうだ。記号に過ぎない記号に過ぎない・・・自分に言い聞かせても、その記号たちまでもが踊りだしてあまりの馬鹿馬鹿しさに笑ってしまった。音読などしてしまったら、もう、言語の奏でる旋律と共に私まで下流に流されてしまう。ゆるゆるゆるゆる・・・。この擬態語もまた堪らない、そのまま海に流れ出てもいいかなぁと思ったりもするが、如何せん明日は愛すべきデイリー孝太郎の担当だ。
一見、日本語と同じくうねうねした英語を眺める。昔は蟹の這う文字と言われたくらいだ。しかし、そこから得られるものはあまりに便宜的に、論理化された言語だった。「1+1=2」これはもう十分分かったよ。単語同士の空白に寂しさまで感じた。
よし!妄想はここまでだ。さて、何か書かねば・・・・・・・・・
・・・。
ゆるゆるゆる・・・・目の前をドジョウが勝ち誇ったように泳いでいった。
しかし後日また暇があって、今度は現物を見ずに頭の中で覚えていた特徴を掘り起こしつつ描いてみると、不思議と先日は表すことのできなかった本物らしさを描くことができた。
首を傾げつつ、その横で、今度は腕時計を分析的に観察しつつ描いてみた。やはり本物らしさは現れなかった。結局、何故そうなったのかはよく分からなかった。
しかし後になって、現物を見ながらでは腕時計が上手く描けなかった原因の一つが分かった気がした。無論私の分析が拙かったのもあるだろうがそれをあえて除いて考えると、最初から分析的に描こうとするあまり、目に見えているものを無心に写すことを忘れてしまっていたことがまずかったように思われる。。逆に現物が目の前にない時は、それを強く頭に浮かべて頭の中の像を必死に表そうとした。そうして描いた絵は分析的に描いた時より上手くできた。感覚像はきわめて正確であったということである。
自分が思っている以上に頭は外部のことを敏感に感じ取っているようである。勉強中に二階の部屋から一階のトイレに行く時、私には誰かが入っているかなんて分からないはずなのに、何となく誰も入っていないと思う時がある。そしてほとんどは当たっている。勉強中でも頭は無意識のうちにトイレのドアが開閉する音の有無を確認しているのである。それが自分は覚えていないから、虫の知らせのようにふと感じたように思われる。私の頭は思い違いを起こすことがよくあるから、それに絶対の信頼を置くことはできないけれど、頭がかなり正確に現実を捉えているのも確かなようである。
直感と呼ばれるものも、案外この類いなのかもしれない。女の直感はよく当たるというが、これは実は女の頭が相当注意深いことを意味しているのではないだろうか。女という生き物の怖さの由縁である。
月が変わった。毎年10月になると思い出されるのが、『徒然草』の「神無月のころ」で始まる段である。
神無月のころ、栗栖野といふ所を過ぎて、ある山里に尋ね入る事侍りしに、遥かなる苔の細道を踏み分けて、心ぼそく住みなしたる庵あり。
このくだりを頭の中でめぐらす度に、ちらちらと気になっていたことがひとつある。「栗栖野とはどこなのか」という疑問である。兼好は京都の人間だから、きっと栗栖野も京都の地名には違いないけれど、今も残っているのかしら。なぜかいつも以上に心に引っかかる。広辞苑で調べてみると、山科区の地名だということだ。私は居ても立ってもいられなくなった。
京都市営地下鉄東西線の椥辻駅から地上に出ると、すぐそこに山科区役所がある。正面に大きな碑が建っていて、「郷土唱歌/山科」の歌詞が長々と刻んであった。その九番の歌詞を読んで、私は思わず小さく声を上げた。
「南へ行けば栗栖野の/墓は桓武の大御代に/東のえびすを平らげて/いさをヽたてし田村麻呂」
栗栖野という地名がはっきりと記されているばかりか、なんでもここは坂上田村麻呂ゆかりの場所らしいということが分かる。私は意気揚々と散策を開始した。
区役所前の新十条通りは、交通量も多く埃っぽい大通りだ。『徒然草』の面影はどこにもない。ただ、非常に起伏が激しいのが歩いていても分かり、なるほどここは「山科」だと実感された。
しばらく西に歩くと、私の当初の目的はあっけなく達成された。「栗栖野」というバスの停留所、栗栖野の名を冠した看板やポスターの数々……。あまりに何気ない出会いだったが、私にはやはり感慨があった。『徒然草』に書かれた地名が現存するということよりも、兼好が通ったであろう場所に今自分が立っているということに対してである。
ほっと一息ついて遠くを見渡してみると、東も西も山である。兼好はこの栗栖野を過ぎて、どちらの方角に向かったのであろうか。両方向に歩いてみたかったが、日暮れが近づいてきたので、来た道を引き返しがてら東へ向かうことにした。その前に田村麻呂の墓を訪れたのだが、その話は来週にまわすことにする。
新十条通りは、区役所前で外環状線と交わり途絶えている。そこからさらに東進すると、あたりは急に静かになった。まさに閑静な住宅街である。自分の靴音が気になるほどだ。山はもう目の前に迫っている。あと五分も歩けばふもとに到達できそうだった。私の胸は高鳴った。
しかし、暮れゆく町の風景の中を歩きながら、だんだん私は物寂しい気持ちになってきた。細く曲がりくねった路地に、夕飯支度をする家々の明かりが漏れてくる。びわの木のある曲がり角を曲がったとき、若い女の人が赤ん坊によちよち歩きの練習をさせているのを見かけた。彼女は私の姿を見ると不審そうに目を伏せ、私から守るように幼い息子を抱き上げた。私は何かしら後悔のようなものを感じ、軽く会釈をすると、椥辻駅へと踵を返したのだった。「もっとも根源的で敏感な私生活の場に、好奇心という軽率な動機で以って侵入し、申し訳ありません。」そう心の中でつぶやいた。