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孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
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中学生の頃、担任の先生に「将来、器用貧乏にならないようにね。」と言われたことがあるのを、ふと思い出した。器用貧乏というのは、広辞苑によれば『なまじ器用なために、あれこれと気が多く、また都合よく使われて大成しないこと。』であるらしい。器用かどうかはさておいて、『あれこれと気が多い』というのは、非常に自分にあてはまるような気がする。クラシックバレエ、オーケストラ、写真、絵・・・ぱっと思い浮かべただけでも、これだけ様々なことに私は手を出している。興味があることに次々と手を出していった結果、こうなってしまったのであるが、勿論様々なことに手を出せば出すほど、一つのことにかけられる時間は少なくなっていく。もしかしたら、中学校の先生は、私が、様々なことに手を出しすぎて、やることが中途半端になり、結局どれも物にならないことを心配していたのかもしれない。

一つのことを集中的に行うのも勿論大切であるが、一見関係ないようなことでも何に役立つかわからない。ある分野のことを他の分野に活かせることも多い。寧ろ、物事をいかに他のことにも活用できるかどうかは自分次第だと思う。どうせやるなら、ある程度は物にして、自分のやっている様々なことをお互いに作用させて、高めていけたらいい。

今まで、すっかり忘れていた中学校の先生の言葉を今思い出すということは、もしかしたら、自分で気づいていなくても、やっていることが中途半端になりつつある、という警告なのかもしれない。忙しいことを理由に「まぁ、こんなもんでいいか」で終わってしまえば、取り組んでいる物事を、そして自分自身を、それ以上高めるのは不可能だ。今一度、気を引き締めて、何事も一生懸命、自分が満足するまで取り組む姿勢を大切にしたい。

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 とあるアンケートが公表されていて、質問のひとつに「1日が24時間でなかったとすると何時間が良い?」というものがありました。では、少し考えてみてください。

 

 考えましたか?

 

 ここでの統計結果は、「24時間」が5%、「25~29時間」が29%、「30~39時間」が41%、「40~49時間」が17%、「24時間未満」が8%でした。平均は32時間で、24時間以上と答えた人の割合は8割を超えます。皆さん、いかかでしたでしょうか。

 

 私自身も考えてみました。まず睡眠時間があと2時間ほしい。掃除する時間が1週間にはあと3時間ほしい。だらだらする時間があと1時間はほしい。本を読む時間が2時間ほしい。音楽する時間が1時間ほしい。勉強時間が1時間ほしい。孝太郎の原稿にあと1時間ほしい…。計、最大で35時間。

 

 やはり、24時間では足りないものです。これを考える間にも、もう少し要領良くしようと思うことしきり。やる気が起こらなかったり、思うように捗らなかったり。少し片づけしようと深夜に動くと、翌日寝坊して遅刻。全く、うまくいきません。

 

 「1日は何で24時間なんや!」と不満を顔にして問われて、「24時間を1日としたからちゃうか?」と言ったことがありました。太陽が昇って沈んで、また昇ってだいたい24時間。そういう原始的な、アバウトな見方が最初だったと思います。翻って、現代は太陽に想いを馳せる暇もなくあくせくあくせくと動いているわけです。でもいつでもその人には寿命と言う限界があり、生きる時間は決まっているわけです。「今できることに時間が必要だ。」というのはもっともな感覚ですが、本来区切られない自分の時間感覚っていうものを、どこか留めておくぐらいがゆとりを生むように思います。

 

 自分の時間感覚で動いてただのルーズになっては仕方ない。要領がいい人はそこの配分のできる人なんでしょうね。

――皆の友達などというものは結局誰の友達でもないのだ

 誰か偉い人の遺した名言の様であるが、これは或る語学のテキストの和訳問題を私が訳してみたものである。

この問題の作者の意図としては、八方美人で居るというのも考え物ですよ、というぐらいの箴言なのだろうが、私としてはもう少し穿った(寧ろ捻くれた)読みをしてみたい。私には今「友好関係というものは総て何らかの敵の存在を前提としているのではないか」という仮説が浮かんでいる。この仮説を真とするならば、敵が居ないものには友達も居ないということになり、冒頭の箴言が帰結として得られることになる。

 その昔、オーストリアの女帝マリア=テレジアは、プロイセンと対抗する為、長らく敵対していたフランスに娘アントワネットを嫁がせて国交を恢復した。中国国民党と共産党が合作していたのは、言うまでもなく、軍閥や日本に対抗していたときである。学生時代、共通項のない同級生と仲良くなるための話題といえば、大体が教師の悪口であったろう。「愛=憎×憎」などと書いてしまうと少し厭世的に過ぎるであろうか。

 

 ところで、ここへ来てもう一つ、私の頭に浮かんだ考えは「何も敵が人間である必要はない」というものである。何か共通の事象を共に憎むのでも友人関係は成り立つであろう。人が生み出した「憎むべき事象」、例えば来週のテストが鬱陶しいとかであれば、畢竟教師が恨まれてしまうことになってしまうであろうが、人に由来しない「憎むべき事象」、例えば「この世の不条理」といったようなものであれば、誰もが共通して憎むことが出来るし、世界中の人と友達になることだって出来るのではないか。

 当初の意に反して希望的な結論が出てきて私自身も驚いているが、こうすると新たな敵の可能性として浮かび上がってくるのが、神の創ったこの世の条理を愛している人たちである。いやはや、巧くはゆかないものだ。

 烏丸通を歩きながら、いつも以上に無表情な街の雰囲気を私は感じとっていた。伏せがちだった視線をゆっくり上げてみると、無表情さの原因はすぐに分かった。街路樹の銀杏に葉が一枚もないのだ。今からまさに盛りを迎えようとしていた黄葉を前に、銀杏たちは幹とそれに付随する主だった枝のみを残し、小枝から葉からすべてを取り去られて立ちすくんでいた。

 都市は季節を嫌う――私はそう思った。面倒だからだろう。散り積もった黄葉を掃除するのが面倒だからだろう。無論、銀杏の葉がスリップ事故の一因になることは私も承知している。だから、銀杏の枝をばっさりやってしまった行政当局をかたくなになじるつもりはない。ただ、私が感じるのは寂しさである。黄葉が排除の対象となることへの寂しさである。

 時間概念には大きく分けて二種類あるとよく言われる。循環的時間観と直線的時間観がそれである。私は詳しくは知らないが、農耕社会の中で育まれていった循環型の時間概念が、時計の普及と工場労働の進展によって直線的になっていった、というのが概ねのところであろう。

 季節とは、時間循環の過程を区切ったものであり、したがって農耕社会のありかたと密接に関係する。生活の糧となる植物が、いつ芽生え、花を咲かせ、実を結び、そしていつ枯れてゆくのか。あるいは家畜の繁殖期も季節の巡りにしたがってやってくる。季節とは、要は生まれたり死んだりすることなのだ。季節の巡りをつくりだすのは、生命の巡りである。

 とすると、都市にとって季節はやっかいものだ。なぜなら生まれたり死んだりするからである。都市は死を禁忌とする。出来る限り隠そうとする。それは、都市の前提となる文明という名の巨大な生き物が、自らの死をどこまでも恐れるからだと私は思う。だからこそ都市は、生命の循環から目を背けるために、時間を左から右へ、不変という幻想とともにまっすぐに流した。そして都市は、二つの「生」――すなわち「生まれること」と「生きること」からも目をそらすようになった。

病院が出産を拒否するようになった。「命の大切さ」を「学校」で教えるようになった。

私は農耕社会に戻ろうなどと叫ぶものではない。しかし、生命の巡りを、ある種の諦観と寛容の心でもって受け入れることは必要だと思う。少なくとも私の幼児期においてはそうであった。父は、銀杏の落葉が織りなす黄色い絨毯の上を、文句も言わずのろのろ運転していた。誰に言われるでもなく掃除してくれる人がいて、それを手伝いに来る人がいて、数日後、車道は元のアスファルトに戻っていた。

街路樹の黄葉を愛でる、そのくらいの心の余裕を持たなくては、極度に合理化された都市に生ずる深刻なひずみの数々は、決して解消されえないように思う。

 先日、親戚のお姉ちゃんに久しぶりに会い、たくさんお喋りをした。こんなところで身内を褒めるのはどうかと思うが、その人は実に魅力的な方である。口下手の私からするすると言葉を流れ出させる魔法を持っている。才能があるのにそれをこれっぽっちもひけらかさず、それでいて心の底に1本の芯が貫いている。帰り際、私は心が少し透明になった気がして、つくづくこの人に「憧れ」を抱いているのだなぁと感じた。

「憧れ」という言葉は、今の時代ではすこし古臭く聞こえるかもしれない。自身が何かに「憧れ」ていることを、他人に告白するのはやはり気恥ずかしいものだ。それは現時点では理想に到達していない自分の幼さを表すことであるし、心を奪われるという悠長さも今の時代とは少々合わない。しかし、「憧れ」とは他人を妬むことでも、卑下することでもない。そこにある程よい謙虚さは何よりも気付かぬうちに道をそれてしまっていた自分に原点を示してくれるに違いない、そう思っている。

「憧る(あくがる)」という古語には、自分の中から魂が抜け出してぼんやりするというニュアンスがあるといわれている。見慣れた灰色の道に咲いている一輪の花を見つけて、「あ・・・」と立ち止まった時、愛おしい人を思って「はぁ・・・」とため息をついた時、私の中の魂はするりと私の体を抜け出して私を見ているのかもしれない。そうしてその魂は美しい花・愛おしい人の元へ飛んでゆき充電をしてから、再び少しばかり窮屈な私の身体に帰ってくるのかもしれない。「我を忘れる」ことを忘れてはならない気がする。「我を忘れ」て一生懸命遊ぶことが仕事だった子供の頃の、あのエネルギーに満ち満ちた感覚が懐かしい。「憧れ」とはこの漢字が示すように「童(わらべ)の心」を思い出すことなのだろうか、そうだとしたらなんともpureなことだ。

 先日わが家庭の戸籍謄本を見た時、父の欄に父の母、すなわち私の祖母にあたる人の名前を発見した。故人で会ったこともない人だから私はその名をその時初めて知ったのだが、祖母の名前は父の名前と同じ漢字を含んでいた。つまり、父は祖母から名前の漢字を受け継いだ。
 そのとき私は、あぁ父も人の子であるのだなぁと思った。そんなことは自分も人であるならば当然のことだが、自分の親が、その親に今までの自分のように育てられてきたというのは、確かなことであるけれどなかなか想像しにくい。特に親が自分よりはるかに大きくたくましく、何でもできる存在であると思えた幼少の頃は、親は神にも等しく全く完璧で、自分と同じ人であると考えることもできなかったものだ。
 しかし二十歳にも近づく頃となると、そうでもなくなる。身長は成長期を過ぎても父に及ばないし、社会人として働く親に比べれば私はまだ何もできない存在に等しい。しかし年を経て、親が常に正しいとか、何でもできるわけではないことに気付きだす。そして次第に親もそれぞれ一人の人であると見るようになる。
 親のように、幼い頃は絶対的なもの、世界の全てに見えたものは、自分が成長していくにつれて段々その絶対性を失う。その代わりに更なる広い世界が自分に開かれる。それは人が自立していく上で欠かせないことであるのだろう。だから私にとって親を一人の人として見ることができるようになったのは、喜ばしいことである。しかし同時に、幼い頃の自分に戻りたい気持ちもまだまだある。絶対的なものの存在を認め、すがりついているのは気持ちのよいことだった。
 現在、心では自立しようとしつつも現実はままならない、微妙な立場に自分はいる。といって自分が自立している姿も想像がつかないいっぱいいっぱいな状態であるが、やがては落ち着いて、今度は一人の人として以上に親を見る、次の段階に進めたらよいと思う。

孝太郎第11号の作成が遅れております。来月まで待っていただきたく思います。と同時に、できたらもっと原稿送ってきてほしいなーなんて思っております。なんとかこう、執筆の秋として、何か寄せてもらえると非常にうれしく思います。よろしくお願いします。締切のことはあまり気になさらないでください。

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