忍者ブログ
孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
カレンダー
05 2025/06 07
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30
最新CM
[02/10 編集長]
[01/04 編集部紅一点]
[06/01 なんばぁ]
[05/13 日曜担当者]
[05/10 いちこ]
最新記事
(04/03)
(11/17)
(07/21)
(02/10)
(01/01)
最新TB
ブログ内検索
[48] [49] [50] [51] [52] [53] [54] [55] [56] [57] [58]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

私は落語ゆうやつが好きでして、小学生のころ、親の持ってた桂米朝の落語のテープを何べんも聞いて、しまいには一つの話を全部覚えてしもうたことがございましてな、身近な友達には趣味のあう友達がおらんかったさかい覚えた落語洗濯物干してる親の横へ行って話してきかすみたいなことをやっとった気がします。
しかし好きとは言えなんとなく何年か前からほとんど聞かんようになってしもたんですが、この10月から某局のドラマで落語家のでてくる話がはじまりまして、それをきっかけに久しぶりに古いテープを出してきて聞いてみたんですな。これがやっぱりまたおもろいんですわ。聞く前は、もう何年も聞いてなかったもんで一回覚えた話もはっきり思い出せなんだですが、ひとたび聞きだすとでてくる人物のセリフやら展開やらが蘇ってくる、これではさきが読めておもろないんちがうかと思わはるかもしれませんがそれがそんなことはない、何遍聞いても笑えるゆうところが落語のええとこのひとつや思います。
もっとみんな落語をきいたらええのに、とは小さいときに思うとりましたが、最近自分もきいてなかったもんで、昔の自分に怒られそうでございます。「らくごのご」みたいなんでええからおもろい番組ができてくれへんやろか、なんて。
え、オチですか。そんなもんはまた来週つけますわ。

PR

 通りすがり

 

 

草叢を歩きました。頭上には紅くなった木々がありました。着いた建物の階段に腰を下ろしました。

 

 ふと気づくと足下に何かくっ付いていました。見慣れた「くっつきむし」と、見慣れない草の実たちでした。軽く通っただけなのに、前にも後ろにも付いていました。平べったいの、丸いの、黒いの、緑のとありました。

 

 とりあえず取って放りました。一つとると指に粘液が残りました。顔をしかめて次々と取りました。ですがどんどん取りにくくなりました。なんとかやっとで取りきりました。

 

 

「お前についていく中で 新たな世界を夢に見た ここでどうせ捨てるなら せめて大地に投げてくれ」

 

 

 指先に残る粘りからそんな声が流れてきました。

 

詠うような、はかない声でした。

 ネタがないことをネタに書かれた文章ほどつまらないものはない。しかし今回に至ってはこの手段を採らずにはいられないだろう。なにせ現在、11月16日の23:19。ネタがないというよりは時間がない。いずれにせよ書いている自分の状況を書くという、文筆のショート回路は大した文章を生まないだろう。そんなことは百も承知で、敢えて今日はだらだらと時間の許す限り綴ってみようと思う。
 小学校の卒業文集でどうしても書くことが考えつかないという友達がいた。「小学校での思い出」若しくは「将来の夢」と大まかな題は与えられていたものの、それではあまりにも抽象度が高かったようだ。担任の先生も入稿の〆切などあったのだろう。困じ果てた風だった。ところが、とうとう時間に窮して彼が無理矢理書き上げた短い文章は、奇跡的に芸術的なものだった。流石にここに全文を載せるのは憚られるが、私にはかなり印象的な文章で、今でもかなりの部分を覚えている。
 「羽があったら飛びたい」で始まる彼の文章は、題の抽象度を遙かに上回る抽象度で、「~なら○○したい」を次々に羅列してゆく。そして最後に「僕は勉強が嫌いだ。遊ぶことが好きだ。」とやはり抽象的な宣言をして終わる。今になって思うが、これはトリスタン・ツァラの「ダダ宣言」に似ている。「言いたいこと」?そんなもんねぇよ。それが俺の言いたいことだ!何とも体制に対して挑発的な態度。この文章は今読んでも瑞々しく心を打つ。小学生の彼に、そこまでの意図など無かっただろうが、子どもというのはガチガチの観念に固められていないだけに、時としてこのような一発逆転ホームランを打つものなのだ。
 23:43。そろそろupの作業を始めるべきだろう。一発逆転ホームランを打つには、私はもう生き過ぎているようだ。来週からはちゃんと計画的に書こうと思う。

私は、小学校4年生の頃から、クラリネットをかれこれ9年以上やっている。しかし、自分の中で、最も思うように吹けていたように思うのは、ほぼ毎日のように練習していた中学生の頃であり、週に2回ほどしか吹けていない現在では、思うように吹けずに悶々とするばかりである。他人と比較するものでもないとは思うが、楽器を始めて3年程だとしても、ほぼ毎日のように練習を積み重ねている人の方が自分よりも上手い場合が多く、大切なのは年数の長さではなく、練習の密度の濃さなのだと思い知らされる。

勉強に関しても通じるものがあるように思う。集中せずにだらだらと長時間勉強するのと、たとえ1時間でもしっかり集中して勉強するのとでは、後者の方がより効果があるに違いない。

 ここまで色々なことを思い巡らせながら、ふと、考えようによっては自分の1日の時間を「延ばす」ことが可能なのではないかと思った。私は今まで何度となく、他の人より24時間程、余分に時間が欲しいなどと思っていたが、1日、つまり、陽が昇って沈み、また昇る時間、24時間を自分だけ48時間に延ばすことは勿論不可能である。だが、集中して過ごす1時間が、怠惰に過ごす1時間より、何倍も効果や密度があるのだとすれば、前者の1時間は、後者の何時間かに相当するとも考えられ、時間の過ごし方によっては、1日の時間を「延ばす」ことができる。何ともわかりにくい説明になってしまったが、自分の時間の過ごし方次第では、上に述べた願いも叶えることができるのだと、私は妙に嬉しくなってしまった。

授業中に居眠りをするようになったのはいつからだろうか。
少なくとも中学生の頃までは居眠りなんてとんでもないことだと思っていた(今でもしたくないとは思っているが)。
高校に入ってから、他の人が机に突っ伏していたり頭が傾いていたり、そういう光景が珍しくなくなったし、自分も気がついたら黒板の様子が変わっているなんてことがしばしば発生した。よくよく眠った次の日でも、あるいは勉強そっちのけで10時には寝ていた月でも、眠いときは眠いのだ。
居眠りというやつはしたくてしてるわけじゃない。結構おもしろいしきいていたいと思う授業でも寝てしまうこともあるのだから、「やる気、集中力がないんだ」とは一概には言えない。
ひとつ経験的にわかってきたのは「授業の内容が理解できなくなったら眠くなる」というものだ。途中まではふんふんときいていたけれども、あるところで疑問が生じて立ち止まった途端に先生の話が意味不明になる、それと同時に睡魔がやってくる。これはどういうことなのだろう?やはり聞く気、意識の問題なのだろうか?
ちなみに、黒板に書いてあることのほとんどがすぐには理解できず、しかも書くスピードが速いのでノートをとるのに必死だから先生の話もよく聞けない、そんな苦しい(ほんとに脳が苦しがっている気がする)時間が3時間も続くという授業があるが、これは今まで眠ったことがない。上の法則に反していて謎である。
結局居眠りをしてしまうのは体力がないからというだけなのだろうか。確かに中学校までとそれ以降では日々の運動量は劇的に違うから理由のひとつとは思うのだが。居眠りの予防法を見つけた方がおられたら是非教えていただきたいと思う。
ただ、授業中に見る夢は、結構面白いものであることが多いし、まったくしないのもなんだかな…なんて言ってたらダメだよね(笑)

ある人はしっかり勉強して、ある人はスポーツで体を鍛え、ある人は楽器の腕を磨き、ある人は人のためになる仕事をし、そうして日は暮れてゆく。
そんななか、勉強はよくわからないし、運動はしたくない訳でもないけどそのために外へ出るのも面倒だし、楽器の練習を毎日コツコツやる根性もなく、人の役に立ちたいと言いこそすれ、こんなやつが仕事などできる訳がなくずっと家にいる、そういう自分が今日もまた夜をむかえて「なにもできなかった」と少し自分に嫌悪感を抱く。日々いきいきとグングンすすんでいく人にはもう追い付けないような気がして、いまさら努力するのもなぁ、なんて思ってしまう。
それに対してもう一人の自分が考えるに、世の中からすれば、自分が今日一日猛勉強したりコンビニでレジ打ちしまくったりしても、ピーナッツチョコを口へ運びながらテレビをみたり有名人の書いた本を寝ながら読んだりしても、大して変わらない。私ががんばるかどうかは世の中と相談して決めるのでなくて自分が納得するかどうかでしかない。
さらに別の自分が考えるには、やはり他人のためになることをするということが良いことであり美しいことである。世の状況をよく見極め、自分が最大限人々に貢献できることを模索しそれに尽力することこそ私の望む生き方である。
いろんなことが頭の中をうごめきながら、どうしたらいいかわからなくて、とりあえず忙しくしてみる。忙しいとはこういうものではないか。
予めあった道を、わたしはすすむのでない。「僕の後に道は出来る」と言って生きてゆきたい。自分に責任をもつということだ。その道を通るのはただ自分ひとり。マニュアルはない。こういう意味で「道を踏み外す」という言葉をみると、これは間違っているな、という気になる。(道という語を正しく把握するのは難しい)。わかるだろうか。
確かに彼や彼女は自分よりもずっと勉強はできるし仕事もテキパキやる。だからといって自分が陰になってどうするのか。私のもつ時計と、やつらのもつ時計は進み方が違うのだ。忙しさの中に身をうずめてしまっては自分も、それにきっとまわりの人も、つまらないに違いない。この混沌は私がつくっているのだ、ハッハ!とくらいに言ってみよう(ただし誰もいないところで)。そうするとテレビの前で寝転がってばかりはいられなくなる。

みなさんどうも!一週間ぶりですね~。

学祭シーズンですが、どうお過ごしですか?

私は立命館大学、琵琶湖・草津キャンパスの学祭に行って参りました!

今日はそこでのお話を一つ・・・。

 

噴水に風船がふわふわ付いていてきれいだなぁーと歩いていると、食器貸し出しスペースを発見。

「エコ」のために、リユース食器が使われているとのこと。

私もリユース食器を片手にオムそばをたいらげました

全国の学祭でもゴミの分別をたくさん行ったり、使い捨ての食器類を減らしたりと「エコ活動」しているらしいです。(とくダネ情報)

使用済みのリユース食器は、ゴミ捨て場からダッシュで回収され、食洗機のでかいやつで洗われていました。

しかし、そこで疑問に思ったのはこの食器をきれいにするために使用される、水、洗剤、電気。

これは果たして「エコ」なのでしょうか

みなさんもうお分かりですよね

環境のためによかれと思ってやっていることが、逆に環境によくないことになっているかも。

相手のことを思ってやったことが相手にとっちゃあ、ただのおせっかい、なんてこともよくある話です。

みなさんも左目を手のひらでおおってみてください。

盲点は視野を変えれば見えてくるかもしれませんよ。

忍者ブログ [PR]