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私は宿題というやつがだされると、提出期限ぎりぎりまでかかってしまう人である。
いつも間際になって重い腰をあげ、がーっとやって提出する。
ときどきそれを反省して、宿題の出された日にとりかかることもあるが、大抵の場合、途中で面倒になって、結局間際までほったらかしにしてしまう。
この「ズルズル症」であるが、これの特徴は、たとえ同じ課題が出されたとしても、提出期限が3日後なら3日かかるし、1週間後なら1週間かかる、という点である。
要は、朝プリントを渡されて、今日の終わりの会には提出しなさい、みたいなことを言われたなら、1日もかからずに仕上げられるはずのものを、1週間以内に出せばよいと思うだけで、1週間かかるのだ。
「課題がある」状態のまま過ごすのはなかなか不健康なことであるし、有意義な時間の過ごし方なるものを実現するならば、やはり出来るものはさっさと片付けてしまった方がよいにきまっている。それができなくて困っている。
ときに茂木健一郎という人は、(この人は非常に多くの仕事を抱えているそうである)、思い立ったことはその瞬間、すぐに始めるのだという。それに、朝起きて、やるぞと思ったらもう仕事モードに入れるらしい。「瞬間集中」ができるというのだ。
これは大変うらやましい力だ。得てして我々は、考え付いたことを、「明日からやろう」「あれが終わったらやろう」などと考えがちである。仕事をするにも「コーヒーを飲んでから」とか言ってすぐやらない、あるいは余計なことを考えてなかなか集中しないものだ。
対策といってはなんだが、「昨日までのことを反省する、今からやるべきことや今日の目標を決める、それがどれだけできたか自己評価する」というサイクルを繰り返すことが自分の実力アップに効果的で、様々な部活でこの取り組みが行われていたりもするそうだが、これをやってみるというのはどうだろう。これでは毎日が期限のようなものであるから、ズルズルやる訳にもいかない。
よし、やろう、明日から。
…ではダメだ。今日から始めよう。
修学旅行生のマナーはかなり悪いですね。大声でしゃべったり、足を伸ばして座っていたり・・・。一番困っているのは、優先座席を譲らない、という点です。
この間私はそんな修学旅行生たちに、「優先座席だからおばあさんにかわってあげなさい」と思いっきり注意してみました。
中学生はまだまだ素直ですね。その後は、おじいさんにも席を譲っていました。
しかし、言われてできるのなら、マナーに関する責任は彼らの教師、もしくは学校側に責任があるのではないでしょうか?
制服を着て、学校、都道府県を代表しているわけですから、観光だけではなく、子どもたちを成長させるような教育を修学旅行にも組み込んでいってほしいものです。
また、修学旅行生を受け入れる京都府京都市のお偉いさんたちも、府民市民の普段の生活にきちっと配慮していただきたいものです。
バスが遅れたり、快適な乗車が損なわれたり。観光の町だからこそ、もっと京都住民の目線からも物事を把握してほしいですね。
少し話は変わりますが、心理学には交通の心理学という分野があります。その中で、歩行中や運転中には「匿名性」が働いて、攻撃的になってしまう、というものがあります。私もなんとなく身に覚えがあるなぁ・・・という感じなのですが、しかし、今回この「匿名性」、悪い面ばかりではないと感じたのです。
私がバスの中で中学生たちに注意を促すことができたのは、もちろん多少の勇気は必要だったにせよ、「匿名性」の力があったからではないでしょうか?
マナーが悪いのも「匿名性」、マナーを是正するのも「匿名性」。少し極論かもしれませんが、全く関係ないとは言い切れないと思います。
みなさんも「匿名性」を上手く使ってくださいね!
じゃんけんで勝つ確率はいくつかご存知だろうか。
この質問だと、3分の1と答える人、あるいは2分の1と答える人、もしかしたらその他の答えを出す人もいるかもしれない。
今日は確率論的な話ではなく、じゃんけんにまつわる私の体験談を書きたい。
先日、私はあることを決めるためのじゃんけんに参加した。参加者は20人ほどいた。20人では多くて勝負がつかないということで、はじめに2回ほど、第三者とじゃんけんをして負けたあるいはあいこだった者を除くことで人数を減らしてから参加者同士でじゃんけんをした。そして最後まで勝ち残ったものがある権利を手にするのだが、ここではあえてその内容には触れないこととしよう(一部の人には察しがつくかもしれない)。
このじゃんけんはおよそ週に1、2回行われている。私はこの2週間で3度ほどこの「権利を得るためのじゃんけん」に参加した。その3度ともが大いに私の興味をひく結果を残した。
1回目(1日目)、私はその権利がとてもほしくて、20人以上の中の1人になれるとは思っていなかったものの、意気込んでジャンケンに臨んだ。すると続けて3度勝って、最後の数人にのこってしまった。ここで一瞬迷いが出たのである。もしホントに最後まで勝ってしまったらどうしようか、と。(自分の買った宝くじが高額当選したと宝くじ売り場で知って、その場にそれを置いて去ってしまう人がたまにいるらしいが、そういう人も、当たれと思って買っていながらホントに当たるとは思っていなくて、当たったときいたショックで手放してしまったのではないか。もしかしたら私も似たような状況にあったと言えるかもしれない)。さて、そう思ったが最後私は次のじゃんけんで負けてしまった。悔しさもあったが、なんだか少しホッとした気がする。
続いて、2回目である。このときは、勝ってもあまり魅力的な権利がもらえる訳ではなかったが、一種の義務感があってじゃんけんに臨んだ。このときの心境としては、「挑戦しないというのはなんだか惜しいから、負けてうまくあきらめられたら」くらいのものだった。そしたらうまい具合に一発で負けた。「あ、負けたな」と思ってその場を去った。
3回目、の前に、1回目2回目のことを振り返って、私はなかなか悔しい思いをしていた。途中で弱気になった1回目についても、最初から負けても良いと思っていた2回目についてでさえも、勝ちたかった、とまさに「逃した魚は大きい」の気分だった。そこへきたのが3回目である。このときは、私は勝つつもりでいた。参加者はまた20人くらいはいたが、勝とう勝とうと思ってじゃんけんに臨んだ。そうすると続けて2回(3回だったかもしれない)勝って、最後の2人に残った。1回目の経験から、私はここで気持ちを切らしてはならんと思い、勝つぞと思いながらじゃんけんをした。そしたら勝った。見事権利獲得、である。
このとき、私は少しの間、2つの意味で呆然としていた。
ひとつは自分が勝てたことの実感が少しずつわいてくる感じ。もうひとつは、気の持ちようが、まったくの運でしか決まらないと思っていたじゃんけんにも、影響するのか!と思わされたからだ。
「運も実力のうち」と言うが、これはある意味本当だな、と思わされた出来事だった。実力とはやればできる力のことではない。向上心のようなもの、前に進んでゆく力なのだろうとなんとなく思った。(文と文の間でだいぶ飛躍があるが)
と書いたは良いが、冷静に思い返せば、どうしてもやりたかったことが、じゃんけんに負けたせいでできなかった、という経験は私自身何度もしている。そうすると、今回の出来事は偶然でしかなかったと言うしかないかもしれない。それにしても、じゃんけんで決められることがらは、多数ある。もし極端に「じゃんけんが強かったり弱かったり」したら、人生変わってくる気がする。
ある日の新聞の投書欄に、最近のセンセーショナルな言葉遣いへの嘆きが記されていました。例えばテレビ欄。「超美人女優」が「幻の素材」を使い「カリスマ料理人」が料理したものを食べて「感動」したり、一方では「壮絶な半生」のドキュメンタリーに「日本中が涙」したりしています。投書は、そういった言葉の氾濫で繊細さが失われていることを危惧していました。テレビ欄だけでなく、これは週刊誌やスポーツ新聞、活字だけでなくバラエティーからワイドショーまで、誇張気味の表現が多数見受けられると言うこと、これはこの孝太郎をご覧になる方なら一度は案じたことがあるのではないでしょうか。
ところで先日、また別の新聞記事に、これまた言葉を案じた文章があり、そこでは最近の傾向として「考える代わりに感じるようになった」と書かれていました。何か二人の作家の、やはり言葉についての著書に関する評であったと思いますが、何か大変分かりやすい、有効な指摘だなと思って、今日ここに書きました。
今思いつくものであっても、直接的なギャグのバラエティーがユーモアを醸す番組より前面に出てきたり、意味を成さない叫びのような形容詞を連ねるスポーツ実況が人気を博したりします。売れる本のタイトルには「9割」「99.9%」「○○力」、その他単純化、印象化された文言がみられ、タイトルが何も無くても帯に「100万人が泣いた純愛小説」「現代人必読の書」などと書いてある場合があります。
本来商業主義から事を派手に見せるのはまあ分かることですが(ちょっと最近陳腐ですけど)ニュース、解説、そういった類は企業の商品を売る動きとは異なると思います。そして何より、私たちの日常会話もそうした派手さに影響を受けています。企業のCMと方向が違うと言われるかもしれません。でも、一緒です。友達と話していても「むっちゃヤバい」ことなど日常茶飯事。たいていが1日で解決します。キャラとモデルと友人まとめて「むっちゃかわいい」と評したりします。要するにフィーリングです。感覚です。伝わるんです。もう一つ、こういった表現は均一化します。みんな揃って「マジで?やっばぁ~」と嘆き、揃って「かわいぃ~」と盛り上がります。でもいいんです。感覚が伝わるんです。
小ネタを二つ。最近耳に入ったニュースから。
中国では離婚が増加しているらしい。なんでも1979年から採られている"一人っ子政策"で生まれた一人っ子たちが結婚適齢期に達しているのと関係があるとか。なるほど、小さいころから同年代の他人と協調して生活することに慣れていないと、大きくなっても愛する人との共同生活に不自由を感じてしまいやすいのだろう。離婚率が増えることで、人口抑止という中国政府が持つ本来のねらいに2次的な効果が上がっている、というのは何とも皮肉な感じがする。
日本では紅白歌合戦の司会者が決まって、軽く物議を醸している。紅白両チームの司会、共に男性というのが、51年ぶり、NHKアナウンサー以外では初めてだとか。何が物議かというと、男女同権の時代に司会が両方男性というのはどうなのか、という意見があるわけだ。一方で、紅組の司会が女性という決めつけの方がどうなのか、という意見もあり得るだろうし、そもそも男女が別れて対決するという構図自体どうなのか、という意見もまああるだろう。しかしながら、紅白で白組が勝ったからといって翌年に男性が強権的になるというわけでなし、私個人の意見としては一夜限りのお祭りということで、司会も含めて白は男/紅は女としたほうが番組として見やすいように思う。他に適当な分け方も見あたらないことだし。
最近、どうも気が緩んでいるのか、早くも中だるみのようなものがきてしまったのか、講義中もぼんやりとしていることが多い。先生の話も右耳から左耳へと流れていく。授業の内容から離れて、今日しなければならないことなどを頭の中で挙げていってみたり、取り留めのないことをぼんやり考えてみたりしているうちに、いつの間にか眠りの世界へ旅立ってしまうこともしばしばある。
そんな状態のまま、一昨日の夜、テレビをぼんやりと見ていたところ、突然「世の中につまらないことなんてない」という言葉が頭の中に浮かんだ。
今までつまらないと思っていた事柄も、自分が興味を持ちさえすれば、それは突然「面白いこと」に姿を変える。ある事柄と向き合って自分の興味が湧く部分を探し出すことによって、自分の中に新たに入ってくるその事柄に関する情報は、自分に様々な刺激を与えてくれるだろう。つまらないと思うのも、面白いと思うのも、全て自分次第だ。
そう考えると、今までの様々な事柄を聞き流していた時間が、途端に勿体なく思えてくる。自分次第で全てのことを面白く感じることができるなら、自分が自然と興味を持てないことには仕方がないと割り切って、つまらないと思うことには目を向けずにいるのは勿体ないと思ったのだ。どうしたって自分の中に入ってくる情報なら、面白いと思えたほうが良いと私は思う。そもそも、以前はどんなことであっても、自分の中に新たに入ってくることは面白く感じていたようにも思う。私は、いつの間にか、自分の知らないことを知る喜びや楽しさを忘れてしまっていたのかもしれない。
さあ、では明日から意欲的に授業に臨もう。そう思っていたはずなのに、昨日の授業もまたぼんやりと受けてしまった。「考えていたことをそのまますぐ実行できるなら苦労はしないか。少しずつ変えていこう。」と前向きに考える自分と、「実行できるかできないかも、自分次第だ。」と軽い自己嫌悪に陥る自分。二人の自分が心の中に生まれた。
英語力の低下が著しい。私の中で。使わないと忘れるという話はきいていたが、まさかここまで知識が薄れるとは思っていなかった。高校生の頃は、毎日英語に触れていた。それがネイティブスピーカーとのコンタクトでなくて文法の参考書とか英作文の問題集とかであってもとにかく英語を目にし、出力することがあった。だがしかし。卒業してからというもの、わずかながら読むことはあっても、書くことなどほぼゼロになってきた。半年強経った今となっては去年は当然のように知っていたことができなくなっている。なんとも悲しいものである。
思えば、たまにやろうとするからしんどいんであって、毎日やってれば一回一回の苦労は小さくてすむのだ。これは掃除を連想するとわかりやすい。勉強って掃除みたいだね。やれば気持ちいいし。ハマるととまらないし。みんなでやると結構楽しい、ってこともあるし。
いまからでもまた英語の力をつけていきたい。少しずつ。
いまからでもまた腕力を鍛えていきたい。少しずつ。
いまからでもまた料理を覚えていきたい。少しずつ。
継続は力なりというやつですね。やりたいことがたくさんあるので、一日一回やってると24時間じゃたらなくなってくる気がします。そこをうまくやれるような頭の良さがほしいです。